甲斐武田を探検っ!!

       屋代氏屋敷跡

 

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史跡・関係地名:屋代氏屋敷跡(屋代氏館跡)・土塁跡

住所:山梨県北杜市明野町上神取

場所のわかりやすさ:△

駐車場:×(路上駐車で)

説明板:○

売店:×

地図:雲がかかってます・・・・

関係人物:屋代秀正(勝永)・屋代忠正など

 

<北杜市指定文化財「屋代越中守勝永」館跡>北杜市が建てた説明板では勝永ですが、一般的には「秀正」で知られている屋代越中守秀正。彼を簡単に説明しますと、屋代氏は信濃の人間、当初は村上氏とともに武田氏と交戦。が、やがて圧力に屈し武田氏に属しました。その時、武田氏に属したのは屋代志摩守正国。彼の長子が長篠にて討死すると、正国の弟(室賀一葉斎)の末子を養子にします。それが「秀正(当時勝永)」です。

屋代秀正は武田氏が滅びたあと、上杉・北条・徳川相手に外交を駆使しうまく生き残り、最終的に徳川氏に属します。慶長十九年(1614)この地に入り一万五千石を領し、元和八年(1622)徳川忠長の家老に任ぜられます。ここはその徳川時代の屋敷跡となっています。翌年元和九年(1623)秀正が没すると、子の忠正があとを継ぎます。しかしながら、徳川忠長(駿河大納言忠長)の罪(家光との内部抗争も遠因とも)に連座、所領を没収され、この館も放棄されたと考えられています。

 

上の写真がその館の土塁跡です。方形の敷地跡なのですが、道路側のみに土塁が残ります。この土塁はとても目立ちますので、見落として通りすぎてしまう・・・ということはないはず。他三方には表面上目立つ遺構は残されていないのですが、西側には堀跡の細長い地割が一部に確認でき、屋敷の大きさを想像させます(現地説明板参照)。

<屋代と真田と三枝>同地区に屋代秀正墓所のある勝永寺があります。周辺地域には、同時期に甲斐に所領を持った真田信尹(信昌)三枝昌吉の屋敷跡も残ります。屋代氏屋敷がもっとも良好な状態で遺構が残されているのですが、他の屋敷跡もご覧になって見てください。

さて。屋代氏屋敷跡にお伺いした際、ご近所の方が農作業の休憩をとっており、イロイロ楽しくお話ししました。こちらの場所に見学に来る方はあまりいらっしゃらないのだとかおっしゃり、自分をめずらしがってくれました。さらには、今こちらの土地の所有者は東京に出てしまっているのだそうです。

周囲に駐車場などはありません。道路の路肩が広いので、そこに駐車いたしましたが、くれぐれも地域の方に迷惑のかからぬようお願いします。

<現地説明会と貴重な写真たち>2012年2月11日(土)、屋代氏館跡の現地説明会が行われました。この屋敷は慶長十九年(1614)〜寛永九年(1632)の18年間使用されたもの。約100m四方の敷地でありました。

 

上は虎口付近(南側)からの写真。左の木は土塁跡になります。

 

館の周囲には土塁と幅5m深さ2mの外堀があり、南側には虎口(出入り口)がありました。また厩・家臣詰所・母屋(秀正・忠正が生活した建物)など様々な建物跡も確認できています。更に敷地内には石組みの井戸もあります、4箇所確認できています。その中にはまだ水が湧いているものも。

 

建物跡には規則的に柱穴が確認できます。中にはヒサシのものと思われる小さい穴もあります。上の井戸は母屋近くの井戸。

 

館内西側、ちょうど土塁跡の東側になりますが、規則的に並んだ石組みが見つかりました。庭園跡と思われ、数回改修した跡も確認できています。底部からはヘドロのようなものも発見されており、水を用いいた何かがあったことは確かなようです。

 

館跡からは生活に使われた皿やすり鉢なども発掘されました。

屋代氏館跡は調査後、埋められてしまうそうです。今回の写真は、かなり貴重なモノになるのかも知れませんね。

周辺の甲斐武田氏関係地:屋代越中守秀正(勝永)墓所大蔵三島神社など

参考文献など:天正壬午の乱/平山優・甲斐国志・武田勝頼のすべて/編柴辻俊六平山優・屋代氏館跡現地説明会資料/北杜市教育委員会など

<2008/6/19 2012/2/13リニューアル>