甲斐武田を探検っ!!

       法蓋山東光寺

 

 史跡一覧へ

 人物一覧へ

 トップへはこちら→

kfm026

 今回、「桜井安芸守信忠墓」については、櫻井氏御子孫であり、現在京都在住の北村様のご厚意により、様々な情報を得ることができました。北村様、ありがとうございました。                           2011/5/22 みん

史跡・関係地名:臨済宗妙心寺派法蓋山東光寺/武田義信墓所・諏訪頼重墓所・櫻井信忠墓所など

住所:山梨県甲府市東光寺町

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○

説明板:○

売店:×

地図:

 

関係人物:武田義信・諏訪頼重・櫻井信忠など

<甲府五山の二位>武田信玄が制定したという甲府五山(府中五山とも)のひとつで、首座長禅寺に次ぐ二位東光寺です(他円光院能成寺法泉寺)。近くには甲斐善光寺がありますので、東光寺を見物する際は善光寺もセットですね。東光寺の行き方も善光寺を目印にするとよいと思います。善光寺参道が途中から善光寺の西を南北に走るようになりますので、その道路を看板に従い西に入って道なりに進むと、右手に東光寺があります。

 

<国重要文化財>山門先のひと際目を引く東光寺仏殿。こちらは室町時代に建てられたといわれており、国の重要文化財に指定されています。織田軍の甲斐侵攻時には多くの寺院が焼き討ちにあい、東光寺も本殿などが消失。しかしながらこちらの仏殿は免れたのだそうです。このほかにも、仏殿内の十二神将像・阿弥陀如来像、そして本殿裏の庭園は山梨県指定文化財となっています。歴史が多数残る東光寺です。

 

<藍田上人>甲斐国志によると、大覚禅師により文永年間(1264-1275)に開かれたという東光寺ですが、創立年代ははっきりわかっていません。甲斐国社記寺記などでは、文永年間の創立で開基は武田氏か板垣氏ではないか?と指摘しています。

信玄・勝頼期の住持は藍田上人で、天文年間(1532-1555)に東光寺に入ったと伝わります。信玄義信の調停に快川和尚らと関わるなどしています(結果失敗ですが・・・)し、深く武田家と関わりを持ちますが、武田家滅亡時には織田軍により恵林寺山門にて快川国師らとともに火をかけられてしまいます・・・。

<櫻井安芸守信忠>東光寺の無縁墓地内には、櫻井安芸守信忠のお墓があります。無縁墓地内向かって左側最上段、中央にある法名がしっかり刻まれている大きい墓石、それが櫻井信忠です。さて、櫻井安芸守信忠とは?

 

櫻井氏は武田家の支流といわれており、櫻井安芸守信忠は信玄・勝頼期に公事奉行の一人として、さらに武田家滅亡後の徳川氏の甲斐支配時には甲府支配統括四奉行の一人として活躍した人物です。多くの史料に名が記されている人物で、奉行であったこともあり多くの古文書に見ることができます。慶長十五年(1610)九月二十四日八十三歳で死去した(天文元年生まれという説もあります/清運寺過去帳)と伝わっています。

甲斐国志が伝える櫻井安芸守信忠の法名は「実岫玄相居士」。安永八年(1779)の甲府妙清山清運寺過去帳によると、櫻井信忠の院号は「眞源院」。東光寺墓石には「岫」が「山カンムリに由」と刻まれています。現在法名が確認できる櫻井信忠の墓石は延宝六年(1678)に子孫により、再建されたものです。なお、山梨県史資料編7中世4考古資料第二部に記載され紹介されている五輪塔は、北村様の指摘により、2011年秋山梨県教育庁文化財保護課が「櫻井安芸守とは別の墓である」と表明しています

櫻井氏について多くの情報提供をしてくださった北村様、ありがとうございました。

まだまだ、不明な点の多い甲斐武田氏とその周辺。様々な史跡をめぐりつつ考えて見る事も楽しいですね。

  

<諏訪頼重墓>無縁墓地脇を奥に進むと、信濃国諏訪地方の領主諏訪頼重、さらに頼重の弟で諏訪大社大祝職(おおはふりしき)頼高(頼重夫人とも)の墓所があります。向かって右が頼重、左が頼高といわれています。頼重は信玄側室「諏訪御料人(小説では、由布姫・湖衣姫)」の父親ですね。諏訪氏は信虎の時期、武田と共同戦線を張ったりしていましたが、信玄の代になって突如関係悪化。頼重は諏訪大社に関係する人間たちをうまくまとめるコトができず、そこを信玄につけ込まれしまい天文十一年(1542)7月5日降服。そしてこの東光寺に幽閉、信玄の命により同年7月21日切腹・・・

頼高死後、諏訪大社大祝職は頼重の叔父満隣(みつちか)の子伊勢宮丸(後の頼忠)が就任。諏訪氏後継であるはずの頼重の子虎王丸は失意のうちに消息不明。殺されたという話も伝わっています・・・。

  

武田太郎義信墓>観光パンフレットなどで、諏訪頼重とならび武田義信の墓所も頻繁に紹介されているのでご存知の方も多いはず。永禄十年(1567)十月十九日死去(自害とも病死とも)したと伝わる武田信玄嫡子太郎義信。名「東光寺殿籌山良公大禅門」なのですが、法名に使われている「籌」の文字。「はかりごと」とかの意味があるそうで、普通は使われないんだとか(甲州武田一族衰亡史/高野賢彦)。父親信玄の影響が大きく、なおかつ信玄と対立して自害?してしまったということから、なかなか厳しい評価をされてしまっている武田義信。多方面から様々な評価がされてますよね。ただ、信玄に対する謀反計画というのは、まだまだ再考の余地があるようです。しかしながら、義信の正室は今川氏であったので義信自身「親今川派」という立場ではあったと思われています。

この武田義信の死去は、後々甲斐武田家に大きな意味を持つこととなります。

上の写真は、諏訪頼重と武田義信墓所の位置関係。向かって右は諏訪頼重。左は武田義信の墓所です。

 

 

<柳沢氏墓所>時代は下ってしまいますが、柳沢吉保の嫡子吉里の男子二人の墓所もあります。 武田義信墓所のすぐ上(奥)にあります。柳沢吉保は江戸幕府で大きな力を持ちますが、その柳沢氏も甲斐の出。武川衆として古文書などに現れてます。

周辺の甲斐武田氏関係地:甲斐善光寺能成寺など

参考文献:山梨県史資料編7中世4考古資料・甲斐国社記寺記・甲斐国志・甲斐武田一族滅亡史/高野賢彦など

<2006/8/11 2011/5/22リニューアル>