甲斐武田を探検っ!!

 

天沢寺 飯富兵部少輔虎昌・山県三郎兵衛尉昌景菩提寺

 

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なかなか入口がわかりづらく、少し迷いましたが行って見ました、甲斐市の天沢(澤)寺!とっても雰囲気が良い感じ。なにせ武田四名臣と甲山の猛虎の菩提寺ですからね、何気に興奮してました(笑)ちなみにこのお寺の近くを亀沢川が流れていますが、その川の流域を飯富氏が領していたんだとか。飯富虎昌と山県昌景は天沢寺(てんたくじ)の中興開祖だそうです。両名ともに武具を赤に染めた「赤備え」が有名ですよね!

お寺の裏手にまわると、ありました、飯富虎昌と山県昌景の「顕彰碑」。ん?お墓じゃないの?って家で写真みて気づいてしまいました。必死に他の写真見たら、ありました、雑に撮った写真のなかに。飯富道悦(虎昌の父親)・虎昌・山県昌景ですが・・・・後悔してます!!(すぐ右上の写真、顕彰碑の横の2つの石塔、こちらが本当のお墓のようです・・・・2006/12/17追加)

 

 

左の写真「飯富道悦」「飯富虎昌」「山県昌景」のお墓です。かなり最近建てられたものですよね。説明板などは特別には建っていないので、ちょっと注意して探したほうがよいかもしれません。

飯富道悦は信虎の武将として働きました。が、永正十二年(1515)10月17日、信虎が大井信達と戦って敗北した際討死したそうです。

飯富虎昌は信虎・信玄に仕え信虎の代にあった福島正成との戦いにも活躍します。その活躍以降信濃攻略に力を発揮します。また、少し熱くなりやすい性格だったらしく、信虎の行動が気に食わないとき、他の武将を誘い御岳山中に引きこもってしまったこともあるそうです。ただその熱さも気に入られ、義信の傳役を任されます。結果的にその熱さゆえか義信事件に連座するという形になってしまうのですが・・・・。

一方山県昌景は虎昌の弟または甥と言われている人物です。飯富家が取り潰されたあと山県家のあとを継ぎ、信玄からもっとも信頼された家老の一人となっていきます。信玄亡き後、様々な派閥争い(武功派と官僚派、甲斐衆と信濃衆など)のなか、長篠にて討死していきます。両腕を撃たれてもなお口に軍配をくわえ、織田徳川軍に向かっていったという話しも伝わっています。

<2006/8/11>

天沢寺に再び行ってきました!ここに行くとき前回も雨。どうも相性良くないようです(笑)春先に行きましたので、飯富虎昌・山県昌景墓所にもツクシが可愛く出ていたり!!まだ花は咲いていませんでしたが、咲き始めつつありましたので、キット綺麗な境内になるんでしょうね〜。

前回行った時には、石塔をしっかり撮影していませんでしたので。今回はバッチリ!このような場所はひさしぶりにお邪魔したりすると、また新たな発見がありますよね。気分的にも落ち着ける雰囲気を持ったお寺さんでした。

<2008/4/7 追加>