甲斐武田を探検っ!!

       総覬\

 

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史跡・関係地名:総覬\/武田左馬助信繁菩提寺跡

住所:山梨県甲斐市竜地

場所のわかりやすさ:×

駐車場:×

説明板:×

売店:×

地図:

私有地であるため自主規制とさせていただきます。

関係人物:武田信繁など

<甲斐の武田信繁菩提寺>武田信繁は武田信玄の弟。幼少時、父信虎は信玄(当時は太郎)ではなく、利発な信繁(当時次郎)を大いに可愛がり、世継ぎに信繁をそえようと考えます。しかし信繁自身は常に兄を第一に考え行動し、天文十年(1541)信玄が信虎を駿河に追放した際も、全く逆らうことなく信玄に協力したと伝わります。

永禄元年(1558)、子の信豊に対し九十九ヶ条の家訓を作成しています。また武田家の信濃侵攻などに活躍しており、それらから「甲斐の副将」と称されています。しかし永禄四年(1561)上杉謙信と戦った第四次川中島合戦で信玄本陣を守り討死します。彼の首は武川衆山中親之が持って帰ったのだとか。信玄は落胆、そして彼の遺骸を戦死した地近くの鶴巣寺に埋葬します。

その後、武田家により甲斐国内に信繁菩提寺総(宗)覬 覆修Δいん)(大泉寺末寺)が建てられますが、甲斐国志が成立した文化十一年(1814)にはすでに廃寺となっています。

長野市にある松操山典厩寺の信繁墓所は、元和年間(1615-1624)に松代藩主真田信之(父真田昌幸)が鶴巣寺を典厩寺と改めたと伝わっています。ちなみに「典厩」は左馬助の唐での呼び名だそうで、信繁の子信豊も左馬助を称しました。そのため後年武田家では、信繁は「古典厩」、信豊は「新典厩」と呼ばれていたそうです。典厩寺に伝わる心繁の法名は松操院殿鶴山巣月大居士、総覬,謀舛錣辰討い詼〔召禄○覬‥続兒柿跳邉鏤里箸覆辰討い泙后

なお信繁妻は子の信豊とともにありましたが、天正十年(1582)信豊が小諸城で討死した時、ともに自害したと言われています。彼女の墓所は甲府市内法華寺にあります。

<総覬,虜・・・>甲府市の西、穂坂路沿いの高台の竜地の地にかつて、武田信繁菩提寺総覬,あったと伝わります。おことわりしておきますが、今回は完全に民家敷地内となりますので、地図では紹介しておりません。上記の通り、文化年間には廃寺となっていた総覬 現在すでに遺構などはなく、民家の庭木の中に総覬,砲△辰燭發里氾舛錣訐佚磧文淮愿磧砲一つ、ひっそりと説明板もなく残されているのみです。よって、詳しいことは不明のままとなっています。

 

「双葉町の石像物」によると高さ85cm×幅40cm×厚さ39cmの石塔。こちらの石塔のある民家の方ですがほとんど留守にされていて、近所の方が庭などの手入れなどをしているそうです。その近所の方と話ができたのですが、近くにある黄梅院のことはご存知でした。しかし、石塔の存在自体はご存知でしたが、総覬,笋海寮佚磴里い錣譴覆匹呂泙辰燭知らなかったそうです。こちらの場所、もうすぐ人々の記憶から無くなろうとしているのでしょうか。寂しいですね。

周辺の甲斐武田氏関係地:黄梅院跡武田不動尊など

参考文献:新編 武田信玄のすべて/柴辻俊六・甲斐国社記寺記・新編武田二十四将正伝・双葉町の石像物など

<2009/4/13 2010/10/24リニューアル>