甲斐武田を探検っ!!

       龍樹山勝永寺 屋代越中守勝永(秀正)墓所

 

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史跡・関係地名:臨済宗妙心寺派龍樹山勝永寺/屋代越中守勝永墓所/勝永寺山門

住所:山梨県北杜市明野町上神取

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○

説明板:○

売店:×

地図:雲がかかってます・・・・

関係人物:屋代越中守秀正など

 

<屋代越中守勝永墓>北杜市指定文化財の屋代越中守墓所、寛延三年に子孫により建てられた石塔は170僂曚匹梁腓さとなっています。屋代越中守菩提寺の勝永寺ですが、彼の墓所は勝永寺からは少し離れた場所にありますのでご注意ください。左上の写真は、南方から勝永寺と屋代越中守墓所の位置関係をわかりやすく撮ったつもりなのですが・・・。右端の瓦の建物が勝永寺、左端に写る白い建物が屋代越中守墓所となります。墓所に行くには勝永寺に駐車し、西にのびる舗装されていない道を歩いていきますと、左手の民家の一角?ぽいトコロにあります。勝永寺に伝わる彼の法名は「良岳玄帳大居士」。

ところで甲斐国志によると屋代越中守、武田家に仕えていた際は左衛門尉勝永と名乗り、武田家滅亡後は越中守秀正と名乗ったのだとか。今回は墓所説明板に従い、「屋代越中守勝永」と案内しています。

<屋代氏>屋代氏は信濃の村上氏一族。かつては北信の雄村上義清とともに武田氏と戦いますが、屋代正国は天文・弘治の頃武田に属します。武田家では信濃先方衆として活躍しますが、正国の嫡子正長(養子、正国の弟室賀一葉斎の二男)は長篠の戦いで討死したため、越中守(室賀一葉斎の四男)が跡を継ぎました。

武田氏滅亡後は上杉氏につきますが、そうは言いつつ信濃に進出してきた北条氏と連絡を取りつつ、徳川氏が信濃に進出してくると内通するなどして、かなり細やかな動きをみせています。最終的には徳川家臣となっています。その後、大坂の陣では旗奉行を務めるなど活躍し、恩賞として上神取の地を与えられます。甲斐国志によると元和九年(1623)八月六日、66歳で死去しています(逆算すると生年は1558年)。

 <勝永寺山門>この門は江戸時代中期の関所門で、江草地区の馬場(ばんば)関所のものを明治時代に檀家の方から寄進され移転したものです。門の構造は高麗式と呼ばれ、北杜市指定文化財となっています。

 

<屋代と八代と奴白>小石和筋(現笛吹市)の寺院などで永正年代などに屋代越中守が・・・、もしくは屋代氏が・・・という寺記・伝承が見当たります。年代的に見て、屋代越中守秀正ではなく屋代一族でもなく、おそらくは小石和筋を領していた八代(ヤシロ・ヤツシロ・奴白)氏の誤記誤伝ではないか?と考えられています(甲斐国志など)。屋代氏が武田氏に属したのは天文・弘治年代、そして屋代越中守秀正の生年は上記の通り永禄元年(1558)となっています。

周辺の甲斐武田氏関係地:屋代氏屋敷跡大蔵三島神社など

参考文献など:天正壬午の乱/平山優・甲斐国志など

<2008/6/19 2011/4/14リニューアル>