甲斐武田を探検っ!!

       獅子吼城跡

 

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史跡・関係地名:獅子吼城(江草城・城山・小倉城・江草小屋・浦城?)跡

住所:山梨県北杜市須玉町江草

場所のわかりやすさ:○

駐車場:△

説明板:○

売店:×

地図:

関係人物:今井信是・今井信元など

<小尾街道(穂坂路)を見張る城>塩川左岸の標高778mの独立した山にある獅子吼城。表舞台(文書など)に登場するのは武田安芸守信満三男の兵庫助信泰(信康)が応永年間この江草地区を治め江草氏を名乗り、屋敷を構えるようになってから。しかしながら、信泰は若くして(二十五歳とも)死去してしまい、弟の今井信経がこの地を継いでいます。信経は逸見地方にも支配地域を拡大し、その後も今井氏がこの地域を領しています。上の地図横の写真は、北方の見性寺付近から見た獅子吼城跡、中央の山です。また、右下の写真は南方の茅ケ岳広域農道の江草地区入口付近から撮影しました。

 

右上の写真ですが、江草地区ある根古屋(ねこや)神社、大きなケヤキが目印です。建造物と対比すると、どれくらい大きいかわかるはずです。こちらの神社境内に獅子吼城の説明板などありましたが、この説明板は縄張り図も記されているので大変役に立ちました。デジカメで撮影するなどして、それを参考にしながら攻めましょう。

ちなみに説明板付近から獅子吼城まで、歩道があるそうですが、確認していません。後ほど自分が進んだ道との合流地点を確認してみると、根古屋神社からの道は若干荒れているようです。無理はしないほうがよいかもしれません。神社前の道路を自動車で道なりに進むと獅子吼城跡中腹に出ることができますので、こちらの方がよいと思います。

獅子吼城入口付近には駐車場はありませんが、自動車1〜2台は停める事ができるスペースがありましたので、そちらに駐車。自動車を降りた中腹からは10分もあれば主郭部に登ることができますが、「山」であることはもちろん、石が浮いて不安定な場所が多くありました。くれぐれも無茶はしないで下さい。

 

 

 

途中、縄張り図を気にしつつ、斜面に目を向けると竪堀や帯曲輪を確認できます。

 

 

少しずつ主郭部に近づいて行くわけですが、石積みが増えていきます。足場が石になるなどして不安定になるのでご注意を。

 

 

  

曲輪などもみつつ、主郭部に到着です。主郭部には石碑・石祠が並んで建っています。少し離れた場所には烽火台(復元?)もこの烽火台はかつての大河ドラマ「武田信玄」の時につくられたものなのだそうです。近くには説明板もありますので、これも嬉しいですよね。

 

主郭部周辺にも目を向けてください、帯曲輪が囲んでいます。

 

冬場ですと、主郭から眺望がききます。南方を見ると新府城、若神子城など。北方は信州峠に続く集落が確認できました。

獅子吼城にまつわる話、信虎の代の今井兵庫助信是とその子兵庫助信元が知られています。今井氏は浦今井氏・浦殿などとも呼ばれています。「武田信虎のすべて」によると、信是は永正十六年(1519)などに信虎と争っていますが、翌十七年(1520)栗原信友大井信達らと起こした反乱は信虎方に鎮圧されます。その後、享禄四年(1531)に子の信元も飯富虎昌らと信虎に対し反乱を起こします。このときは信濃の諏訪頼満(頼重祖父)に援軍を要請し戦いましたが敗れ居城の浦城に籠城し、翌天文元年(1532)に武田信虎に降服しています。この浦今井氏を傘下にしたことにより、信虎は甲斐統一を達成します。

信玄・勝頼の代には烽火台、そして信州峠を監視する場所であったようです。武田氏滅亡後の天正壬午の乱では北条軍がこの地に陣を構えますが、徳川軍(服部半蔵正成率いる伊賀衆)と武田旧臣(津金衆)の奇襲により陥落しています。

なお浦今井氏の「浦」、府中(源甲府)にある同じ系統の今井氏に対し「裏の土地(逸見)」という意味があるのではないか、とも言われています。ちなみに浦城の場所ですが、恐らくココの獅子吼城ではないか?とのこと。確定はできないそうです。同じ須玉町内に中尾城跡(中尾塁)と呼ばれる場所もあり、そこも浦城候補のひとつとなっています。

周辺の甲斐武田氏関係地:中尾城跡三枝土佐守屋敷跡など

参考文献など:甲斐国志・武田信虎のすべて・天正壬午の乱/平山優など

<2007/03/07 2011/12/30リニューアル>