甲斐武田を探検っ!!

 

新府城跡(勝頼公霊社など)

 

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※ こちらは新府城内の案内はほとんどしていません。曲輪などの紹介はこちらにどうぞ。

甲斐武田氏の史跡の中でも特に有名な場所のひとつ、韮崎市の新府城跡です。駐車場は舗装はしてありませんが、大きめのものがてあります。また、JR中央本線新府駅からも近いので、車でなくても大丈夫ですね!

さて、車を駐車場に停めて早速本丸にむかおうとするのですが、結構な階段が迎えてくれます・・・少々体力に不安があるので、階段横の乙女坂を利用。これまた結構つらい!少し覚悟してください(笑)

階段を登りきると、目の前には「藤武神社」の拝殿、新府城守護神です。そしてこの神社の裏手にまわると本丸跡に到着です。新府城普請奉行は真田安房守昌幸、その補佐として原隼人祐貞胤(原隼人祐昌胤の子、昌胤後継昌栄の弟)が付けられたとも言われています。

天正九年(1581)十二月に勝頼らは新府城に入城、しかし翌十年(1582)三月には織田・徳川軍の侵攻を受け、城に火を放ち岩殿城にむかって落ちていきます。天正壬午の乱の際に徳川家康が使用しましたが、それも短期間。極めて短命であった新府城です。

 

武田勝頼公霊社

神社裏の本丸跡から右に目を移すと、こちらの石祠があります。元禄の時代(1600年代後半)に勝頼を偲んで地域の方々により建てられました。

こちらの周囲には長篠合戦で討死を遂げた者のための供養碑、さらに著名な人物?14名の霊碑があります。

周囲は静かに時間が流れ・・・

 

勝頼公霊社の周囲に建つ霊碑ですが、五味与惣兵衛高重(碑は貞氏)・小山田五郎兵衛昌輝・真田兵部丞昌輝・真田源太左衛門尉信綱・春日源五郎信澄(碑は高坂昌澄)・山県三郎兵衛(尉)昌景・馬場美濃守信春(碑は信房)・武田兵庫頭信実・原隼人佐昌胤・内藤修理亮昌秀(碑は昌豊)・香坂(碑は高坂)又八郎助宣・土屋右衛門尉昌続(碑は昌次)・甘利郷左衛門信康・横田十郎兵衛康景となっています。

五味高重・・・越後出身の浪人、武田家では浪人衆頭三人(他は飯尾助友・名和無理介)のうちの一人として武田信実の下で活躍しました。

小山田昌輝・・・ちょっとわかりません、「昌」なので郡内小山田氏とは別の、石田の小山田氏でしょうか?勉強しておきます!

真田昌輝・・・真田幸綱(幸隆とも)の次男です。百足衆として活躍、長篠では兄信綱を追いかけるように突撃、討死したのだとか。

真田信綱・・・幸綱長男。天正二年(1574)幸綱死去をうけ、真田家を継ぎます。川中島合戦では旗本組として本陣の脇をかため、活躍したそうです。

春日信澄・・・春日弾正忠虎綱(高坂昌信)嫡男。父が対上杉で動けないため、代理として参戦したと伝わっています。

山県昌景・・・四名臣にも数えられます。その戦上手さから徳川家康に褒め称えられますが、内政・外交などにも活躍しています。

馬場信春・・・四名臣の一人。一国の将にもなりえる人物と評されました。また、城づくりの名手でしたが、それは山本勘助から伝授されたのだとか。

武田信実・・・信玄の弟。浪人衆を率いていました。長篠では、数少ない親族衆戦死者のうちの一人となってしまっています。

原昌胤・・・父昌俊から陣場奉行をつとめています。戦いの際には前線にたたない目立たない役柄ですが、武田家からは抜群の信頼をうけていました。

内藤昌秀・・・武田信繁亡き後、武田家の副将格として活躍、四名臣の一人。熱くなりやすいらしく、長坂長閑斎とは斬り合い寸前の喧嘩をしてます。

香坂助宣・・・春日虎綱の甥と伝わっています。

土屋昌続・・・奥近習から、侍大将に出世した人物です。元は金丸氏。真田昌幸・曾根昌世らとともに晩年の信玄とともにありました。

甘利信康・・・信玄初期を支えた甘利虎泰の次男。長男昌忠が落馬がもとで死去したのをうけ、甘利氏を継ぎます。

横田康景・・・実父は原虎胤。横田高松後継。城景茂とともに軍中第一級の猛者とうたわれました。

ということで、勝頼公霊社などの紹介でした。

※ 曲輪などの紹介はこちらにどうぞ。

 <2007/7/4>