甲斐武田を探検っ!!

       霊長山清泰寺 曲淵正左衛門吉景墓所

 

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花桃様から、とてもありがたいメールを頂きました。それによると、幕末に書かれた曲淵氏の先祖書きに曲淵正左衛門吉景は「曲淵庄左衛門美景」と記されているそうです。花桃様ありがとうございます。これで、当HPの深みが一気に増しました!今後ともよろしくお願いいたします。                         <2007/4/12 みん> 

史跡・関係地名:曲淵正左衛門吉景他曲淵氏墓所など

住所:山梨県北杜市白州町花水

場所のわかりやすさ:△

駐車場:△

説明板:×

売店:×

地図:

関係人物:曲淵吉景・曲淵吉清など

<甲斐源氏ゆかりのお寺>曹洞宗霊長山清泰寺、寺記によると甲斐源氏の始祖新羅新羅三郎義光の子、義清が大治二年(1127)開基となり創立したと言われています。甲斐源氏の中から特に武田家が力をつけ、甲斐の守護となり戦国時代に近隣諸国にも武名を知らしめていたのはご承知の通り。お寺の名前の由来は「清和源氏が安泰でありますように」からとられたのだとか。曲淵氏は中興開基だそうです。

曲淵氏で甲斐武田氏に特に関係あるといえば、曲淵正左衛門(勝左衛門)吉景になります。信玄・勝頼の時代の人物で、甲陽軍鑑によると、はじめは鳥若と名乗り、板垣信方の草履とりであったとか。その後出世を重ねましたが信方の子、信憲が信玄に詰問状を突きつけられ、後に死去すると山県衆(山県昌景配下・赤備えで有名)に組み込まれ、こちらでも軍功も重ねて、采配御免衆となります。武田氏滅亡時も生き残り、天正壬午の戦いでは武川衆として徳川氏につき北条方に勝利しています。

その曲淵吉景、かなりクセのある人物であったといわれています。甲陽軍鑑からですが、40歳になるまで訴訟を74〜75回し、勝ったのは1回、和解は1回、あとはすべて負けていたとか。また、いわば上司である板垣信憲と言い争いをし、困った信憲は山県昌景と原昌胤に泣きついたり。しかし、職務怠慢などの罪で板垣信憲が所領などを召し上げられ、長禅寺に押し込められると、彼一人信憲のそばを離れずにいた。など、多くの逸話が残っています。

そのような豪傑であり「犬のような」と評した曲淵吉景という人物を、武田信玄は温かく見守っていたそうです。

 

<曲淵三代墓所> 曲淵氏墓所。正確にいうと、吉景・吉清・吉重三代のお墓。吉景の息子吉清は天正壬午の戦いで活躍しています。吉重は徳川旗本となり慶長初期に名が残ります。その三代がどの墓に対応しているかは不明です。どれが吉景のお墓かはまた調べておきます・・・。

周辺の甲斐武田氏関係地:曲淵氏屋敷跡自元寺(馬場信春墓所)・甲州街道台ヶ原宿など

参考文献:甲斐国志・甲陽軍鑑・甲斐百八霊場HPなど

<2006/11/12 2010/12/25リニューアル>