甲斐武田を探検っ!!

       更科姫屋敷跡

 

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史跡・関係地名: 更科姫屋敷跡

住所:山梨県韮崎市上ノ山

場所のわかりやすさ:△

駐車場:×(近くの車道に路駐)

説明板:〇

売店:×

関係人物:更科姫・相木昌朝・相木(依田)信房など


<石碑で見る更科姫>現地に行くとまず目に入るのは更科姫が建立したと伝わる天満宮。その左横に石碑、更には石塔と石祠があります。石碑には詳しく更科姫の事が記されています。
  石碑によると、更科姫は北信濃村上氏重臣、楽岩寺馬之介の娘で永正16年(1519年)に誕生しました。文武両道さらには美貌の持ち主であったそうで、相木昌朝の次男相木采女介依田幸雄と結婚しました。夫は馬場美濃守信房の身代わりとなり、依田美濃守信房と名を改め、遠州諏訪ヶ城(諏方原か?)の城主を15年務めたと記されています。
  この間一人息子幸盛(後の山中鹿之助)を養育したのだとか。徳川家康により夫は憤死、更科姫は甲斐に落ち延びてこの地に居を構え、天満宮を祀りました。

<依田氏に伝わる話>信濃佐久地方に甲斐武田氏と祖を同じとする依田氏がいました。依田氏の相木に住む者は「相木」、芦田に住むものは「芦田」を名乗るなど、大いに繁栄します。
  戦国時代になり村上氏が佐久地方に進出、当初は村上氏に従う依田一族ですが、村上方の横暴などがあり甲斐武田氏に接近することとなります。村上氏に人質として出されていた更科姫の夫相木幸雄ですが、甲斐武田家に捕らわれの身になります。更科姫は夫を追い相木まで来て男児を出産したそうです。その後幸雄は彼自身の人間性、さらには相木昌朝のとりなし等により武田家臣として登用されました。
  天正2年(1574年)武田勝頼は高天神城を攻略。城主として横田尹松、補佐役として相木信房が更科姫同伴で入ります。天正9年(1581年)3月高天神城は落城、相木信房は場外に打って出て討死。更科姫は何とか脱出し、この地に逃れて居を構えたといいます。


<史実と言い伝え>史実と上に記した言い伝えを照らし合わせると、「んん?」とならざるを得ないと思います。無視するのは簡単ですが、しかし、なにかがあったからこの言い伝え・天満宮・石祠、そして石塔があるわけでして。
  個人的に、こういう言い伝えは非常に興味深く、「この地で何があったのだろう」と考えたくなる場所なのです。

<所在地など>わかりずらい場所だと思います。「涙の森」をチェックポイントにしてください。他方向からですと行くことができるかわかりません。また、「涙の森」に更科姫屋敷跡の案内図がありましたが、かなりアバウトなのであてにはしない方がよいと思います。地図では天満宮が表記されていることがあるようですので、それをあてにしましょう。

周辺の甲斐武田氏関係地: 涙の森 など

参考文献:甲斐国志・武田騎馬軍団秘史/依田武勝など

<2006/8/11 2016/1/27修正>