甲斐武田を探検っ!!

       吉久山三星院 三枝土佐守虎吉菩提寺

 

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史跡・関係地名:曹洞宗吉久山三星院 三枝土佐守虎吉菩提寺

住所:山梨県中央市木原

場所のわかりやすさ:○

駐車場:○

説明板:×

売店:×

地図:

関係人物:三枝虎吉・三枝昌貞(守友)・三枝守綱など

<三星院(さんせいいん)の歴史>曹洞宗吉久山三星院は甲府市上曽根にある龍華院の末寺として、元亀元年(1570)三枝虎吉により開基、龍華院第四世大用宗存和尚により開山されました。当初は現在地ではなく大鳥居地区にあり、三枝院としていました。文禄年間(1592-1596)に移転、さらに元和二年(1616)に現在地に移り三星院と名乗り、現在に至ります。

<虎吉と昌貞>三枝虎吉という人物ですが、わかりやすい説明でいうと武田二十四将などに登場する三枝勘解由左衛門尉昌貞(守友の名が知られますが古文書などの研究により昌貞が実名だと判明しました)の父親。虎吉ははじめ武田信虎に仕え、信虎より虎の字を賜ったと伝わります。信虎の駿河追放後は晴信(後の信玄)に仕え活躍します。その虎吉の嫡子昌貞は信玄奥近習六人衆の一人として数えられ、またその武勇から赤備えで有名な山県昌景から認められ「山県善右衛門尉」を名乗っています。しかし、昌貞は天正三年(1575)三河長篠(鳶ヶ巣山砦)で討死してしまい、昌貞の子守吉は幼少であったため昌貞の弟昌吉が陣代となります。その三枝土佐守昌吉は、大阪の陣で徳川方の旗奉行として活躍しています。

<虎吉の墓所は?>虎吉は武田氏滅亡直前、信濃先方衆蘆田(依田)信蕃とともに駿河田中城を守備していたといわれます。その後、武田家が滅亡した際は昌吉を伴い、いち早く甲斐に入国していた徳川家康のもとを訪ね徳川家臣となります。虎吉は天正十二年(1584)四月十四日、73歳で亡くなります。三星院に位牌があり、そこには法名「三星院前土佐大守永普斎宝山玄玖居士」が伝わります。虎吉の室の位牌も三星院にありまして、法名「永光院笑月理慶大姉」と伝わっています。慶長十八年(1613)十二月三日死去。ちなみに彼女は山県氏一族です(山県昌景娘とも言われます)。

さて、虎吉の墓所はわかっておりません。しかし三星院本堂の裏に墓地がありますが、その更に奥の小高い丘(古墳です)に歴代住職の墓所があります。豊富村誌などによると、そこの中に虎吉の墓所があるのではないか?と指摘されています。

虎吉の父親は丹波守守綱。守綱はもともと石原姓だったのですが、信虎の命により甲斐の名族三枝氏を継ぎます。石原氏は守綱の兄主水守繁が継いだのだとか。その孫が、徳川統治期の甲斐四奉行の一人、石原四郎右衛門昌明だと言われています(豊富村誌)。

周辺の甲斐武田氏関係地:三枝氏館跡・大福寺・慈雲院など

参考文献:豊富村誌・三枝氏の足跡を訪ねて/豊富村教育委員会・新編 武田信玄のすべて/柴辻俊六 など

<2007/1/26 2010/10/3リニューアル>