甲斐武田を探検っ!!

       与一地蔵・浅利信種墓所

 

 史跡一覧へ

 人物一覧へ

 トップへはこちら→

ot006

史跡・関係地名:浅利信種墓所・与一地蔵

住所:山梨県大月市賑岡町浅利

場所のわかりやすさ:×

駐車場:△(ないですがどこでも・・・)

説明板:○

売店:×

地図:

関係人物:浅利信種・浅利与一など

<浅利という場所>大月市賑岡町に浅利という地区があります。その「浅利」のという地名の由来、浅利与一義成の亡くなった場所とも、浅利式部の居所とも伝えられています。浅利氏の墓所、そして館跡で名が知られているのは中央市浅利。また、浅利式部というと真っ先に浮かぶのは、浅利右馬助信種(式部丞・式部少輔とも)なのですが、皆さんはいかがお考えになられます?

 

<与一地蔵>高さ2m程度の巨大なお地蔵様。江戸時代にこの地を襲った土砂崩れで埋没してしまったそうなのですが、明治時代に再建されました。江戸時代にあった与一地蔵は鎌倉より与一菩提のために送られた積石式石地蔵であったとも言われています。

ちなみに、浅利与一とは甲斐源氏清光の子です。彼は弓の名手で、那須与一・佐奈田与一とともに「三与一」と呼ばれ、壇ノ浦合戦で活躍した人物です。浅利与一の墓所は山梨県中央市大福寺・法久寺にあります。

 

<浅利信種公之墓>与一地蔵の左隣に浅利信種墓所が昭和四十七年(1972)建立されています。墓史によると、浅利氏に縁のあるこの浅利地区、浅利信種墓所「浅利明神」のある神奈川県愛川町からの申し出があり、分骨されたのだとか。・・・「分骨」ということは、文字通りにとってよろしいのでしょうか?だとすると、エライことのような気がするのですが・・・。

その浅利信種、彼は浅利与一義成の子孫と言われることもありますが、はっきりしていません。信種の部隊の軍装は「赤備え」であったといわれ、大変勇猛であったといいます。

信種自身は、武田信玄の側近として活躍しており、武田義信謀反未遂事件をうけての永禄十年(1567)生島足島神社起請文の取りまとめ奉行を吉田信生とともにつとめています。そして永禄十一年(1568)頃には西上野の統括者として上野箕輪城に在城、さらに永禄十二年(1569)武田信玄の小田原攻めに従軍し、三増峠で北条軍と戦いますが、鉄砲で撃ち抜かれ討死します。現在浅利明神が愛川町にある理由は三増峠との関係からなのです。

 

<頭上を走る文明の力>与一地蔵のほぼ真上には、中央自動車道高架があります。しかもかなりの高さで三本・・・。周辺はとてものどかで、ハイキングや登山者が多く歩いていましたが、この頭上だけは近代的でして。正直、巨大で迫力がありすぎて怖いですね。

こちらの与一地蔵と浅利信種墓所、それなりに知られているものと思っていましたが、大月市図書館で探してようやく情報を確保しました。いずれ忘れ去られる運命が待っている気がしてならないのですが・・・。

周辺の甲斐武田氏関係地:岩殿城跡など

参考文献:大月市の石像物・浅利与一公と浅利一族/豊富村教育委員会・新編武田信玄のすべて/編柴辻俊六など

<2011/5/8>