甲斐武田を探検っ!!

 

隠岐殿遺跡

 

史跡一覧へ

人物一覧へ

トップへはこちら→

 ns004

平成二十一(2009)年二月五日付の山梨日日新聞に「新府城近くに戦国時代後期の武家屋敷跡と見られる遺構が発見・・・」という記事がありました。帝京大山梨文化財研究所の萩原三雄氏や韮崎市教育委員会の発掘を担当する閏間俊明氏によると「戦国時代後期の身分の高い人物の屋敷跡とみて間違いはなさそう。また礎石も躑躅ヶ崎館と同じような使われ方をしているので武田家臣のものであろう」とのことです。

そこまで言われてしまうと、ゼヒこの目で確かめておかねば!!ということで、早速行って参りました。

 

左上の写真は隠岐殿(おきどの)遺跡発掘場所を北から撮ってみたものです。右手前の盛り土は発掘の際にでた土。左中央部にある木々は新府城北にある丸山。奥の山は南アルプスです。なんとなく位置関係掴めるでしょうか?

右上の写真は発掘場所2箇所を南側から撮ったもの。発掘場所は青いビニルシートに覆われている場所です。

 

新聞記事によると、2箇所ある発掘場所の下段側(上の写真は2枚とも下段です)では当時一般的であった礎石を使わず直接地面に穴を掘り柱を建てた跡、また中央部にいろり跡があることから、調理や食事などの日常生活の場ではなかったかと思われています。上段側では礎石や戦国時代後期のものと見られる、当時では高級な陶磁器が見つかっています。戦国時代、建物に礎石を使うことができたのは身分の高い人物と寺院のみで、甲府では躑躅ヶ崎館で利用されているようです。礎石の並びから建物は2棟あったと思われ、一つは幅七間(約14m)、もう一つはその半分以下と想定されています。

遺跡からは炭が混じった柱や焼けた磁器なども出土。新府城が自焼した際、家臣も自ら屋敷に火を・・・とも考えられています。

新府城周辺の家臣屋敷は「甲陽軍鑑」と「甲斐国志」で語られていますが、実際に屋敷跡が出土するのは初めて。新府城が完成してなかったと言われるだけに、周辺の町づくりも疑問視されてきましたが、これから様々なことがわかってくるのでしょうね。

しかしナゼこの場所は隠岐殿遺跡と呼ばれるのでしょうか?隠岐守というと真田隠岐守信尹(真田昌幸弟、真田信繁/幸村叔父)が知られているのですが。さて、一体誰の屋敷だったのでしょうか?わくわくしてきますね!

周辺は桃畑です。駐車場はありません。時間が許す方、4月上旬頃新府城から歩いてみてください。桃の花がとても綺麗なはずですよ!!

また情報を仕入れ次第案内していきます。なお、「隠岐殿遺跡」で検索しても結構ヒットしました!

 <2009/2/11>