甲斐武田を探検っ!!

       日ノ出城跡

 

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史跡・関係地名:日ノ出城(日之城・鷹の巣城・向原城)跡

住所:山梨県韮崎市穂坂町三之蔵

場所のわかりやすさ:×

駐車場:△

説明板:○

売店:×

地図:

 

関係人物:武田信長など

<武田再興を夢見て>こちらの城は室町時代初期(1394-1433)武田氏VS逸見・跡部氏の争乱時、武田右馬助信長に組した日一揆がこもり武田氏再興の拠点とした場所です。享禄五年(1433)武田方が敗れてからは荒れていたそうですが、新府城築城後は白山城とあわせ、新府城南方を守る拠点として考えられており、武田氏滅亡後の天正壬午の乱の際、徳川氏が修復して使用したのだと伝わります。また周辺地域の伝承では小幡日城が造った城だともいわれているそうです。

 

西方が崖、北方は急な斜面になっており要害としては適した土地であったと思われていますが、城跡の保存状況が良好とは言えないですよね。遺構も消滅、さらには中央部を中央自動車道が貫通しています。と言いつつ、中央自動車道開通前から遺構は消滅していたようなのですが。現在は、周辺に住む方の言い伝えや地名などで当時をしのばせることができるそうです。なお、石碑が建つ場所の北側が日ノ出城本丸跡となります。

<武田右馬助信長>武田信長、武田信虎・信玄・勝頼の人物ではないので「?」の方も多いはず。少し紹介してみます。

武田信長は甲斐守護武田信満の次男で、応永八年(1401)生まれと言われますが、はっきりとはわかっていません。彼の父信満は応永二十三年(1416)前関東管領上杉禅秀が鎌倉公方に対して起こした「上杉禅秀の乱」に加担。始めは禅秀側が優勢でしたが、室町幕府の援助を受けた鎌倉公方により敗れ、天目山にて自刃します。信満の子信重・信長は逃亡、弟で穴山氏を継いでいた満春は高野山にのぼります。甲斐国内は守護不在となりますが、鎌倉公方と親密であった武田氏と同じ甲斐源氏の逸見有直が台頭し甲斐守護職を求めます。しかし、鎌倉公方の勢力増大を嫌った幕府側は拒否し、高野山に逃れていた穴山満春を武田陸奥守信元に改名、甲斐守護とします。しかしながら逸見氏の実効支配が続く甲斐には、信元は簡単に入国できません。そこで甲斐国内には幕府より任命された信濃守護小笠原氏家臣跡部氏が守護代として任命されともに入国。しかし信元は逸見氏駆逐には至らず応永二十五-二十八年の間に死去。後継となるのは信長のはずでしたが、幕府は禅秀の乱に加担した人物を嫌ったため、信長の子伊豆千代丸を信元の養子にする事だけを承知、そして高野山に逃れていた武田信重を守護とします。そうした状況下、信長勢は徐々に逸見勢を圧倒。しかし、鎌倉に逃れた逸見有直の救援要請を受けた鎌倉公方足利持氏自らが甲斐に出兵。これには信長もかなわず降服し、彼は鎌倉に出仕する事となります。

甲斐国内は逸見氏と信長がいなくなった事により、守護代跡部一族が台頭。それを知った信長は鎌倉を逐電、日一揆という反跡部氏勢力をまとめ、輪宝一揆という親跡部氏勢力と戦います。永享五年(1433)四月二十九日甲府盆地の荒川において戦いますが敗北、駿河に逃れます。永享六年七月には再び甲斐に入り跡部氏と戦いますが敗れています。

その後信長は古河公方に仕え、上総に進出しています。そしてその地で上総武田氏(真里谷武田氏)の祖となったと伝わっています。

かなり大雑把な紹介でしたが、不屈の精神を持った武田信長、いかがでしょうか。

周辺の甲斐武田氏関係地:新府城跡満福寺など

参考文献など:甲斐国志・日本城郭全集5・穴山武田氏/平山優など

<2011/12/12>