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       能見城防塁

 

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史跡・関係地名:能見城防塁(能見長塁・新府城外郭遺構)

住所:山梨県韮崎市穴山町

場所のわかりやすさ:△

駐車場:△(駅横の公園など)

説明板:×

売店:×

地図:

関係人物:武田勝頼・徳川家康など

 

新府城や能見城防塁などがある七里岩台地を西方から眺めてみました。この台地を利用して、武田勝頼は新たな武田領国の首都を築こうとしていました。

<新府城の防衛線?>天正九年(1581)十二月に完成したにもかかわらず、三ヶ月で自落した新府城。西方は断崖、東方南方も急斜面の七里岩(しちりいわ)台地に築かれた新府城跡には、今でも虎口・三日月堀など多くの遺構が残されており「武田の城」を堪能できます。唯一の地形的な弱点と思われる北方ですが、それを補うように新府城北方約2Km先には土塁跡・空堀等が残されています。それらは七里岩上の穴山駅付近から御名方神社周辺までの東西約1.5Kmを横断しており、能見城跡周辺にあることから「能見城防塁」などと呼ばれています。能見城防塁の造営者は、かつてこの地を本拠としていた穴山氏とも、新府城の主武田勝頼とも、天正壬午の戦いで新府城を使用した徳川家康ともいわれています。

 

<土塁跡>上の写真は県道西側の土塁跡(図のA地点)。南方から撮影し、土塁跡が軽トラック後方に見えている写真と、県道から西方に向かって撮影した写真です。

 

こちらも土塁跡(図のB地点)。ちょうど土塁を真横からみた格好となっています。県道から東側を撮影しました。土塁が民家の境界となってあり、左手の敷地にはしっかり土塁跡が残っています。この周辺には虎口跡もあるよです。

 

<空堀跡>能見城の近くにある斜面を走る空堀跡(図のC地点)。上は斜面下の道路脇から北方から撮影し、下はその逆で斜面上の南方から道路側に向かい撮影しました。わかりずらいと思いますが、堀跡がしっかりと残されています。この遺構は道路で遮断されていますが、まだまだ能見城北方方面にも続いているようです。

 

 

JR穴山駅西方には大きい谷があります。ここも堀として使用されたと考えられています。

 

<西城?>堀として使用されたと考えられる大きい谷の南方には平坦部があり、土塁跡とおもわれる場所があるようです(未確認/図のD地点)。この平坦部を西城と伝えますが、この場所がどのように使用されていたかはわかっていません。上は新道路沿いから撮影、下は穴山駅改札南方の駐車場から撮影しました。下之写真では西城と駐車場の間にJRが走っています。

 

<防塁は誰が?>武田勝頼が新府城を築城した際、新府城も未完であったなか、このような防塁を築く余裕?があったか疑問とされます。また武田家滅亡後、この周辺で甲斐統治をめぐり徳川と北条がにらみ合っており、徳川軍は新府城に北条は若神子に陣取っています。その際のもの・・・ということが、一般的でなおかつ様々な面で納得できる案であるようです。ただし勝頼は新府城を中心として巨大な城下町も形成しようとしていた・・・とも考えられ、実際に武家屋敷らしきものも発見されています。まだまだ不明な事が多い新府城と周辺。今後の研究に期待です。

実は他の場所にも遺構が点在しているようで、まだまだ未確認ですが新府城南方の坂井地区内や勝頼時代に家臣団が住んだといわれる伊藤窪と言われる地区にも土塁跡が点在しているのだとか。新府城と新府城周辺、まだまだ多くの謎が解明されていません。

能見城防塁は、ここで紹介した場所と能見城跡・御名方神社をセットで見学することをおすすめします。規模の大きさがよくわかります。さらには、堂坂砦・御崎神社も含んで見学したほうがよりよいと思います。短時間では厳しいとは思いますが、一日潰して楽しんでみては?

周辺の甲斐武田氏関係地:能見城跡御名方神社新府城跡隠岐殿遺跡など

参考文献:甲斐国志 ・新府城と武田勝頼/新人物往来社・山梨県立博物館主催史跡文化財セミナー「能見城と新府城」資料・廃城をゆく/イカロス出版・戦国の城全史/学研など

<2010/9/21 2012/2/11リニューアル>