甲斐武田を探検っ!!

 

幸澗院

 

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甲府市北部に県内では夜景スポットとして有名な和田峠があるんですが、その峠を越えると緑豊かな下帯那(しもおびな)地区になります。その下帯那にある幸澗院(こうかんいん)、道は広くはないですがちょっとした看板が出ていますので迷うことはなく行けると思います。

「甲斐国志」によると、開山は武田信縄三男吸江(次男は勝沼信友、四男は桜井河内守信貞といわれています、長男はもちろん信虎!)です。一部には信縄次子と伝えられているそうなので、信虎の弟、信友の兄という可能性も捨てられてはいません。僧名を「大泉寺英心」と名乗ったのだとか。彼は信虎開祖で墓所のある、大泉寺住職(二世)をつとめています。大泉寺開山天桂禅長の弟子でそれは、父信縄の意向なんだとか。その後、天文六年(1537)にこちらのお寺の開山となります。そして天文二十五年(1555)に死去し、法名は吸江英心(きゅうこうえいしん)。

その吸江、武田信玄が小諸から甲斐に帰って来た際、ついでにこちらのお寺に立ち寄ろうとしますが、「ついでに立ち寄るとは失礼!」と、強く言ったです。それを聞いた信玄は中に入れなかった・・・との言い伝えもあります。

またさらに同じく「甲斐国志」によると、こちらのお寺は武田信豊菩提寺となっています。どのような経過で、というのはちょっと不明で「戦国の猛虎武田信玄/新人物往来社」という本にもちょこっと記載されているんですけれども。もうちょっと調べてみて、また報告できたら、と思っています。もちろん?墓所などもなく。ただ、境内のあちらこちらに武田菱がありました。「山梨県内のお寺はとりあえず武田菱にすればいいと思ってて・・・」とある先生が講演でボソッと話したのを思い出しましたが・・・あ、こちらのお寺がってことではありませんので。

さて、その武田信豊ですが、武田信玄弟信繁の嫡男です。父信繁が古典厩、息子は後典厩とよばれたりしていますよね。彼は1549年生まれですので1546年生まれの勝頼と年齢が近く、親類衆のなかでは比較的仲がよかったようです。しかし、勝頼の時代に入って(特に長篠後ですね)影響力を持つようになった穴山信君と信豊が親類衆の主導権争いがあったとも言われ、元々信君に嫁ぐ予定であった勝頼の娘を信豊に与えたことが、信君の徳川内通の要因の一つである!ともいわれます。

武田信豊、武田家滅亡時には信濃小諸城にて下曽根浄喜の裏切りにあい母養周院殿らとともに自害します。

 <2007/7/10 2008/2/4一部修正追加>

甲府市平瀬は昇仙峡に向かう道沿いにある地区ですが、そこには香積寺があります。「甲斐国志」によると武田信繁と関係のあるお寺ではないか?とのことです。現在は場所が離れているそうですが、かつて境内にあった瑠璃殿というお堂に永禄十一年の年号で堅操院殿菩提也・・・と記されたモノがあるとのこと。これが、信繁の法名「松操院殿鶴山巣同大居士」と近く怪しい・・・と。

真意は「?」です、多分。しかし、こういう場所も個人的にかなり興味をそそられます!以上、武田菱が印象的だった香積寺です。

 <2007/7/22 追加>