甲斐武田を探検っ!! |
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中尾城跡 |
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ht024 |
武田信虎は内乱状態であった甲斐を統一しますが、その際最後まで抵抗したのが甲斐源氏である今井氏。浦氏とも称されました。当主は今井信元。 享禄四年(1531)1月21日、譜代家老衆の一人であった飯富虎昌は栗原兵庫・今井信元らとともに信虎に対し叛旗を翻し、府中北部の御岳にこもります。更に今井氏は信濃の諏訪氏と姻戚関係であったため、諏訪氏がこの反乱に同調し韮崎付近まで出兵、さらには甲府盆地西部の大井氏も反乱軍に同調します。両軍は韮崎河原辺で衝突、信虎側が勝利を収め、反乱軍は今井氏以外壊滅状態になります。 今井信元は天文元年(1532)9月、本拠「浦城」にこもり信濃諏訪氏の支援を受け抵抗しますが、まもなく信虎に降服し、これで甲斐国内は武田信虎により統一されます。現在「浦城」という場所は残されていませんが、ここ中尾城跡か獅子吼城跡ではないか?といわれています。地理的な状況などからどちらかというと、獅子吼城の方がその可能性が高いようです。 「北巨摩郡誌」には小幡虎盛の子といわれる小幡又兵衛が川中島合戦の論功として、ここ中尾城を賜ったと記されています。これははっきり証明できるものがないので伝承程度のものになってしまいますね。 |
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現在、城跡は工場や畑などになっており、遺構確認できないようです。ただし、近くを佐久往還が走り、新府・若神子などの重要な拠点からもさほど離れていないことから、一つの拠点としては機能していたのではないか?と山梨県史は伝えます。更に、中尾城跡の一部を発掘調査をした際には堀跡と土塁跡が確認できていますので、こちらの場所が伝承だけの地というわけではないことは確認できています。 説明板のある場所は八ヶ岳と南アルプスがのぞめる、気持ちのよい場所です。説明板自体はかなり劣化?してしまっており、読むことが厳しいものになってしまっています。周辺には駐車場がありませんが、あたりは畑になっていますのでちょっと道の隅に駐車してみました。 このあたりは正覚寺や信光寺など甲斐源氏に関係する場所、もちろん武田三代に関係する場所も多くありますので、様々な楽しみがあると思います。 |
<2008/10/17> |