甲斐武田を探検っ!!

       中牧城

 

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yn017

史跡・関係地名:中牧城(浄居寺城・浄古寺城・東郡城)

住所:山梨県山梨市牧丘町浄古寺

場所のわかりやすさ:○

駐車場:△(専用駐車場はありません)

説明板:○

売店:×

地図:

関係人物:大村加賀守・大村伊賀守など

<雁坂の護り>中牧城は天文十七年(1548)武田信玄がこの土地の土豪、大村加賀守に命じて築城させたと伝わります。その後大村加賀守さらに後継の伊賀守が城主をつとめていました。武田氏滅亡後、大村氏などの大村党は北条氏に組しと中牧城と大野砦に籠ります。しかし穴山氏中心の旧武田家臣団を先陣とする徳川軍に敗れてしまい、大村党一族は壊滅、中牧城も落城します。

中牧城(浄古寺城)は、山梨市牧丘町の地名に「浄古寺」があるのでわかりやすいのではないかと思います。笛川中学校を目指して行き、その先にある牧丘第一小学校付近の道を左(西)に入り、しばらく道なりに進むと到着です。

まず目に入るのは八幡神社で、中牧城内鎮守社であったと伝わります。なお、中牧城の説明板はこちらにあります。

せっかくなので、説明板を使用してみます。

浄古寺地区公民館付近が大手であったと思われています(1)。今回私は公民館に駐車し、大手から登城。上写真は大手からの写真です。

 

堀跡が葡萄畑になっています(2)。畑の中には土塁跡の微高地も(3)。

 

主郭部に向かう坂道付近にも堀跡(4)。地割りで確認できます。

 

左の写真に小さく石碑(5)写ってます。右は石碑付近からの南方の眺め。

 

石碑の北方が天守と呼ばれている主郭部です。

 

左上写真は主郭と堀(6)、さらに右上は主郭北方の堀跡(7)。

 

左写真は外堀跡(8)。更に右写真、二の丸西方には土塁跡の微高地がありました(9)。果樹園と民家などに造成されている中牧城ですが、まだまだ遺構は多く残されています。じっくり歩けば歩くほど新たな発見がありそうですね。

<その後の大村党>さて、徳川家康家臣で中牧城代内藤信成家臣、穂鷹成吉の書といわれる「中牧合戦録」というものが残されています。それによると大村氏は、武田家と関係のない徳川家支配よりも武田信玄の外孫にあたる北条氏直に統治を頼み、武田家の再興を図ったのだとか。徳川勢は天正十年(1582)六月二十九日市川(現市川三郷町)着陣。七月一日には先陣が大野砦に向かいます。大野砦は中牧城の南方に位置しており、中牧城防御上重要な場所であったため、大村伊賀守は中牧城をでて大野砦を守りました。しかし、中牧城守備隊の大沢治部正福・倉科左衛門信棟などから徳川の軍勢三千余騎が中牧城に向かっているとの連絡を受け、急ぎ手勢八百余を率い城内に戻りました。しかしながら七月五日、奮戦むなしく中牧城は落城、伊賀守は覚悟を決め放光寺西の坊で自害しました。混乱の中、伊賀守嫡男の忠昌は雁坂峠を越え秩父に逃れます。彼は後に徳川家に仕え、栃本関の関守となり秩父大村氏の祖となったという話が残されていました・・・ 

周辺の甲斐武田氏関係地:恵林寺放光寺など

参考文献:甲斐国志・牧丘町誌・甲斐国社記寺紀・牧丘町誌・中牧の城と大野砦他

<2009/2/1 2012/6/3リニューアル>