甲斐武田を探検っ!!

       飯飽山天輪寺跡

 

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史跡・関係地名:臨済宗妙心寺派飯飽山天輪寺跡/穴山兵部少輔信介墓所

住所:山梨県南巨摩郡身延町下山

場所のわかりやすさ:×

駐車場:△

説明板:×

売店:×

地図:

関係人物:穴山信介など

 

<天輪寺>臨済宗妙心寺派南松院末飯飽山天輪寺。創建年代は不明ですが、穴山兵部少輔信介開基と甲斐国社記寺記は伝えます。しかしながら昭和三十四年火災で全焼し、今は山の斜面に平坦部と墓地が残るのみとなっています。東方には国道52号が走りますが、特に看板や説明板などがありませんのでかなりわかりづらいのかと思います。しかし、国道沿いにちょっとした駐車場?休憩所?らしきものがありますので、そちらに駐車し、歩いていくのがよいと思います。ちなみに、そこにはかなりアバウトな下山地区周辺の観光マップがありますので、そとらも見てみてはいかがでしょう(かなり大まかですが、史跡などの位置関係はつかめると思います)。

 

<穴山信介(のぶすけ)とは?>武田信重の子、信守の弟。武田家より穴山家に養子として入った人物です。甲斐国志によると宝徳二年(1450)三月十九日に死去したと伝わっています。法名は天輪寺英中俊公禅定門。信介自身にはほとんど史料が残されておりませんので、詳しいことはわかっておりません。その穴山信介墓所は墓地の中にあります。特徴のある墓石で、他の墓石も多くないのですぐわかると思います。下山地区といえば、穴山氏が本拠とした地。周囲にも穴山氏を偲ばせる史跡などが多く残ります。

穴山氏は、南北朝後南部・身延下山周辺を本拠としていた南部宗家の東北地方への移住にともない、下山に居を構えたと伝わっています。その穴山氏、武田家から重要な位置づけをされていたようで、頻繁に穴山氏へ養子を送り込んでいます。特に穴山満春後継。穴山満春も武田家からの養子で武田信重の弟。兄信重が上杉禅秀の乱に加担してしまい、幕府軍に攻められ自害。弟である満春は難を逃れるため高野山に入ります。しかし、幕府は彼に甲斐武田宗家を継がせます。満春は武田信元と名を変え、甲斐に入国し守護職をつとめます。

満春(武田信元)の実子は伊豆守。本来なら穴山宗家を継ぐべき人物ですが、伊豆守は本領ではない八代郡の小山城に拠ることになってしまい、穴山氏を継いだのは武田家からきた信介。武田家との政治的な相違から圧力がかかったのでは?と言われています。そういう相違が積み重なったか、宝徳二年十一月に伊豆守は武田信重のいる小石和館を急襲、自害に追い込んでしまっています。

 

 

直接には信虎・信玄・勝頼に関係のない人物なのですが、武田信重あたりから甲斐武田氏を見ていくとまた、信虎の甲斐統一時や勝頼の滅亡時の国人層の動きなどがよくわかるようになります。

周辺の甲斐武田氏関係地:南松院下山城跡など

参考文献:穴山武田氏/平山優・甲斐国志・甲斐国社記寺記など

<2011/3/21>