甲斐武田を探検っ!!

       安楽山広禅院

 

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史跡・関係地名:曹洞宗安楽山広禅院/穴山宗九郎墓所

住所:山梨県南巨摩郡身延町西嶋

場所のわかりやすさ:△

駐車場:△

説明板:×

売店:×

地図:

関係人物:穴山宗九郎(伊予守信永)・穴山信君など

 

<西嶋和紙、知っていますか?>武田信玄にも献上したと伝わる西嶋和紙。その身延町西嶋地区にある曹洞宗安楽山広禅院。国道52号(みのぶ道)沿いの地区になります。国道から入った町道沿いには看板があり、それに従い車を走らせると広禅院。塀には武田菱が大胆に配置されているのでわかりやすいのではないかとは思いますが、お寺周辺が少々道が細くなっていますのでご注意ください。なお、隣に青原院というお寺がありますので目印になりますが、お間違えのないように。広禅院は天正元年(1573)に創立と甲斐国社記寺記に伝わります。こちらのお寺の裏手が山になっており、山に向かう道沿いに穴山宗九郎墓所があります。道を行こうとするとすぐに、道を塞ぐ猪よけの柵があるので柵を開けて(もちろん閉めてください)行くと右手に墓所が現れます。「穴山家西島先祖之墓」と刻まれた石碑が目印。

   

<穴山宗九郎とは?>広禅院に穴山信君の文書が伝わっています。

宗九郎殿古廟依為路辺厥寺中へ移但暮之茶湯御弔可申之由言上之間棟別諸役令免許者也仍如件 下庵 奉之 天正八年庚辰十月廿八日信君印 西島村之 江禅庵」(宗九郎殿のお墓を広禅寺に移しますが、棟別諸役は免除しますというような意味だと思います)。

ここに出てくる穴山宗九郎という人物は穴山伊予守信永と考える説が有力視されています(穴山武田氏)。伊予守信永は、かつて八代郡(現笛吹市)と呼ばれたの小山城を拠点とした穴山氏一族。小山の穴山氏といえば、宝徳二年(1450)十一月二十三日小石和館を急襲し当時の甲斐守護武田信重を討った穴山伊豆守が有名なはず。伊豆守は穴山満春(武田信元と同一人物という節が有力)の子供です。本来なら穴山宗家を継ぐ地位にいた人物でしたが、素行などに問題があったため跡継ぎは武田家からの養子信介に。伊豆守は穴山氏所領の小山城と周辺を治めることとなり、それが不服であった伊豆守には禍根が残り、武田信重殺害の原因の一つになったのではと思われています。信重を討ったあと、伊豆守は記録に登場しなくなります、武田方に攻められ没落?戦死?したのでしょうか。

一方、伊予守信永は信介の子で信介の跡を継いだ穴山信懸の子(甲斐国志では二男)と言われています。同じく子(甲斐国志では長男)の甲斐守信風(信綱とも)は穴山宗家を継ぎ、伊予守はかつて伊豆守が治めていた小山城周辺を治めます。かつて小山を治めた伊豆守は反武田、伊予守信永は親武田。伊予守信永は、大永三年(1523)三月十三日南部某に攻められ、小山城近くにある常楽寺で自刃しています。穴山氏と南部氏(奥州に居を移した一族の残存勢力)は穴山氏が河内地方(現山梨県南部の富士川沿いの地方)に居を移し勢力拡大を図るようになってからは領地などのいさかいが絶えず、長く因縁渦巻く関係。この時期の南部氏は穴山氏が親武田であったため、反武田=親今川となり今川氏の援助を得ながら穴山氏に対抗していたようです。

そのように武田家に殉じた格好となった穴山氏の分家穴山宗九郎信永、天正八年(1580)穴山信君は一族の本拠となった地で供養したかったということなのでしょうか。常楽寺に伝わる伊予守信永法名は「東膳院殿玉山鉄公大居士」となっています。

周辺の甲斐武田氏関係地:本国寺・天輪寺跡・本能寺など

参考文献:甲斐国志・甲斐国社記寺記・穴山武田氏/平山優・武田信重/磯貝正義など

<2011/2/21>