甲斐武田を探検っ!!

 

三増合戦場

 

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永禄三年(1560)5月19日、駿河の今川義元は織田信長に討ち取られてしまいます。義元の後は子の氏真が継ぎますが、三河の松平元康(のちの徳川家康)は今川氏から独立するなどして、今川領内の情勢が不安定になっていきます。それをうけ、武田信玄は同盟国である駿河侵攻を画策。しかし、妻が今川義元の娘である信玄長男の義信は、駿河侵攻に対し猛烈に反対をしたのだとか。このことで信玄と義信の間には大きな溝ができ、謀反事件が発覚、東光寺に幽閉され永禄十年(1567)、義信は死去します。死因は病死とも自刃とも言われています。

信玄は翌永禄十一年(1568)12月6日、駿河侵攻を行います。もちろんこのことを受け、北条氏とは同盟破綻します。さらに北条氏は氏康・氏政親子は駿河に出陣、武田軍と現静岡市の薩?(さった)峠で対峙する事態になります。なんとかその場は撤退した武田軍ですが、北条氏の動きに脅威を覚え牽制のため西上野に出陣、そのまま武蔵・相模と南下し北条氏の小田原城を包囲します。しかし北条氏はあえて戦いを避け、籠城に徹したため武田軍は撤退を開始。撤退途中、武蔵鉢形城の北条氏邦・滝山城の北条氏照が三増峠で待ち伏せし奇襲、さらに小田原城から追いかける北条本軍とで武田軍を挟撃しようとします。

 

挟撃される可能性があることを察知した武田軍は軍を分けます。そして氏邦・氏照の軍は武田軍に攻めかかり、武田家臣浅利信種などが討死します。しかし、横から別働隊が北条軍を奇襲、北条軍は多くの戦死者を出し崩れます。その結果、武田軍は甲斐に撤退していくことができることとなりました。北条軍の戦死者は3000人強、武田軍およそ900人だと伝わっています。

神奈川県愛川町に三増合戦場のとても大きな石碑が建っています。そして同じ敷地内には供養塔などがあり、説明板なども豊富でしたので、よい勉強ができると思います。ただし、駐車場が多分ありません。少なくとも周辺にはありません。自分は脇道に路駐しましたが、あらかじめ承知しておいたほうがよいと思います。

 

また、この石碑周辺地域には三増合戦に関連する史跡、伝承地が散在しています。写真は首塚で、戦死者の首を葬ったと伝わる場所です。胴塚や、さらには浅利信種墓所などもありますので、じっくり探検してみてはいかがでしょうか?

 

この合戦で浅利信種が討死したことは先に述べたとおりですが、その残存部隊を指揮したのは信玄の軍鑑としてその部隊にいた曾根昌世。彼は部隊に対し的確な指示を行い、無事難局を乗り切ったと伝わっています。そして、浅利信種は当時西上野の箕輪城代を務めていましたが、彼の後を継ぎ箕輪城に入ったのは内藤昌秀。北条・上杉などがいる難しい状況の中、長篠で討死するまで西上野で働いています。

武田・北条の同盟は元亀二年(1571)北条氏康の遺言により復活したと言われています。天正五年(1577)武田勝頼に嫁いだのは北条氏康の娘。危機的な武田家の状況で武田八幡に願文を奉納したり、勝頼と景徳院にまで一緒に行動など、とても心に残る人物です。

 <2008/9/18>