甲斐武田を探検っ!!

 

松尾神社 河窪(武田)兵庫助信実屋敷跡

 

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武田信虎五男の松尾民部少輔信是(信虎には竹松という永正十四年/1517年生まれで大永三年/1523年死去した長男竹松と、大永三年/1523生まれ享禄二年/1529に死去した犬千代という三男がいたようですが、他の系図同様に省きました、信是はこれを当てはめると七男、信玄は二男になります)が病死したあと、河窪信俊(信虎七男の河窪信実嫡男)が所領を受け継ぎますが、幼少のため信実が管轄し、この地に屋敷を構えていたそうです。正確な館の場所は松尾神社南方の学校付近らしいですが。

場所的には道沿いなんでわかりやすいです。地図しっかり見れば必ず行き着けるはずです。松尾神社には説明板っていうか石碑ありますのでそれを見てください、勉強になりますよ!

松尾神社、実は河窪・松尾氏以前の鎌倉時代の二階堂氏館跡という話もありますが、結果としては、恵林寺の鎮守だそうです。その神社裏には土塁跡があります(下の写真)。

さて松尾信是は父親はもちろん信虎で、母親は信虎の祖父である武田信昌の四男松尾次郎信賢(のぶかた)の娘。信賢の養子になり「松尾」を継いだんだとか。甲斐北東方面の武蔵国境守備を担当していました。また、永禄八年(1565)二宮(美和神社)造立帳には武田義信の次席として名が残っていますが、これからという時期、元亀二年(1571)病死します。

河窪信実は甲斐府中北部(現甲府市北部)の河窪氏を継ぎ居をその地に構えていましたがその後松尾信是が死去して、信玄命により子信俊に継承されたこの地も信実が管轄したそうです。彼は浪人衆を率いていましたが、天正三年(1575)長篠(鳶ノ巣)で酒井忠次らと戦い武田家親族衆として彼だけ討死しています。

信実の子、河窪信俊は永禄七年(1564)生まれです。元亀二年に松尾信是が死去するとその娘を妻として迎え遺領を相続、さらに長篠(鳶ノ巣)にて父信実が討死するとその遺領もあわせて継承します。武田氏滅亡後は徳川家に仕え伏見城在番大番頭などをつとめ、子孫は徳川家旗本となり、現在にまで至っているそうです。

ちなみに、信虎の子(男)は(竹松)・信玄・(犬千代)・信繁・信基・信廉・松尾信是・宗智(恵林寺僧侶)・河窪信実・一条信竜・信友となっていましたが、「武田信虎のすべて」によると信友は信基と同一人物というのがどうやら正しいようですね。信友が信竜の弟ということになってしまうと様々な年代の相異点が出てきてしまいます。二人の子供の名前も「信尭」で同じだというのも理由のひとつだそうです。

 

じゃぁ、一応学校も・・・ホントの松尾信是屋敷跡はこちらです。学校の敷地内には遺構や説明板ないですっ!最近物騒なんで、あまり周辺ウロウロしないほうがいいんでしょうね、何かに間違えられてもねぇ・・・

ただ、どうもひと昔前までは土塁跡があったみたいですね。

 

 

<2006/8/11>