甲斐武田を探検っ!!

       富田城跡

 

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史跡・関係地名:富田城跡・富田城顕彰之碑

住所:山梨県南アルプス市戸田

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○

説明板:○

売店:×

地図:

関係人物:武田信虎・大井信達・富田範良など

<富田城跡はドコに>武田信玄の父信虎が甲斐守護であった時代、富田(とだ)対馬守範良という人物がいました。彼は現南アルプス市戸田地区などを領しており、同じ西郡(甲府盆地西部)の大勢力大井信達に仕えたと、中央市の富田山歓盛院に伝わります。さらに彼は富田城城主であったといいますが、その富田(とだ)城とは・・・?

富田城ですが、山梨県西部にある南アルプス市中部横断自動車道の側道(甲西道路)横。そこにチョットした駐車場があり「富田城顕彰之碑」が建っています。しかし、ここが城跡ではありません。石碑によると、ここから東南540m(メートル単位で明記されていますが、場所は固定されているのでしたっけ?)。この石碑は、戸田地区に工業団地を造成し富田城跡も区画内であったため、この地に顕彰碑を建て後世に「富田城」を語り継いでいきたい・・・ということなのだそうです。

 

 

<上野城(椿城)に深田はあるか?>永正十二年(1515)十月十七日、武田信虎と甲府盆地西部の大井信達との間で合戦が始まり、信虎は大井氏の城を攻めます。信虎はこれまでの優勢さから周囲の状況を確かめずに城攻めを開始。しかし、城の周辺は深田で、信虎勢の多くは足を取られます。大井氏側はそれを狙い討ち、信虎勢は今井右衛門佐信房・小山田大和守・於曽氏・板垣備州・飯富源四郎・同道悦・甘利氏など大将分だけでも二十騎余討たれ、兵も二百人程討死し大敗したのだとか。

さて、信虎が攻めたという「大井氏の城」と言えば普通考えるのは上野城(椿城)。しかし、城の周囲は斜面が急であったりと深田が囲むような地形ではありません。ではドコなのでしょうか・・・、と考えると大井氏の勢力化で低地で周囲を田に囲まれるような城。そう、ここ富田城が当てはまるわけです。近年では、多くの研究者の方々が「信虎を迎え撃った大井氏の城」は富田城としているようです。

 

<武田VS今川の城>大井氏を支持していた今川氏は信虎の大敗に乗じ、攻勢にでます。甲駿国境を閉鎖、河内地方(いわゆる南部・身延方面)経由で甲斐に侵攻、曽根勝山城に入ります。その後今川勢は恵林寺周辺まで侵攻、信虎は恵林寺に逃げ込むなどして劣勢。しかし、大井氏が突然心変わりするなどして今川軍は孤立、やむなく撤収しています。

しかし今川軍は再び甲斐に侵攻し、大永元年(1521)はここ富田城を攻略しています。富田城と曽根勝山城を拠点とした今川軍は躑躅ヶ崎館に迫りますが、地の利などを活かした武田軍が勝利。今川残存兵は富田城にこもりますが、翌年帰国が許されています。

富田城を舞台とした、歴史の表にあらわれている出来事はこれくらいでしょうか。しかし、それでもとても重要な役割を果たしていた城跡です。

<城跡は?>上の写真、視界がはっきりしていないのは、黄砂のため。いわゆる春霞ですね。一応、北方から富田城があったであろうあたりを撮影してみました。前記の通り、工業団地となり、さらには多くの河川が合流する水害多発地帯であったため、遺構などは感じ取ることもできません。ただ、多くの整備された河川と一部残る田畑が、かつてはこの地域が深田であったであろうことをを少しだけ感じさせるのみです。

周辺の甲斐武田氏関係地:妙大寺・安藤家住宅など

参考文献:武田氏年表-信虎信玄勝頼/武田氏研究会・武田信虎のすべて/柴辻俊六・甲州武田一族衰亡記/高野賢彦・甲府盆地に残る虚構と真実/古屋兼雄など

<2011/5/2>