甲斐武田を探検っ!!

       伝 三科肥前守形幸供養塔・屋敷跡

 

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ks032

史跡・関係地名:伝 三科肥前守形幸供養塔・屋敷跡

住所:山梨県甲州市勝沼町山

場所のわかりやすさ:△

駐車場:△

説明板:×

売店:×

地図:私有地の為、自主規制とさせていただきます。

関係人物:三科形幸・広瀬景房など

<三科肥前守形幸(かたゆき・なりゆきとも)>内膳・伝右衛門・肥前入道などとも呼ばれます。三科氏は甲斐の古族三枝氏の分流といわれており甲斐国志では上神内川邑の名族として扱われています。はじめは板垣信方隊に属します。その際に板垣信方(形)の一字を拝領して形幸という実名を名乗るようになったと言われています。その後赤備えで有名な山県昌景隊に属し、永禄五年(1562)の武蔵松山城攻め、同六年(1563)の上州箕輪城攻めなどで大いに活躍、天正元年(1573)には采配を許され、肥前守を称したといいます。その際広瀬郷左衛門景房と三科形幸が、辻盛昌から訴訟をおこされた事は甲陽軍鑑に描かれており有名な逸話です。

勝頼の代になり、長篠合戦後には広瀬とともに足軽大将に昇進します。「甲陽重家録」によると、武田家滅亡の際には勝頼の命により自害せず、密かに落ち延びこの地域に隠れますが、織田信長が本能寺で討たれると徳川家に従属(当時58歳という説もあります)します。さらに家康の命で井伊直政に属し、天正十二年(1584)小牧長久手戦・天正十三年(1585)上田合戦・天正十八年(1590)小田原城包囲戦などに従軍し功をあげています。特に真田昌幸を攻めた上田合戦では、「信玄公の采配を見習った真田を油断するな」という旨の意見を広瀬美濃守景房(以前の郷左衛門です)とともにしたにもかかわらず、徳川重臣らはそれを「信玄の威光を持ち出す」などと言い退けた結果、大敗。結果的に広瀬・三科らの評価があがることとなります。

 

<三科氏墓所>葡萄畑の中にある墓石。これらが三科形幸の墓所と伝わっているものです。7基ありますが、どれなのかはわかりませんでした。こちらの所有者の方にお伺いし、許可を得て敷地内に入ろうとしたのですが、あるはずの所有者(三科肥前の御子孫と言われる方)のお宅がなく。敷地(葡萄畑)には入らず撮影しました。見にくい写真で申し訳ありません。法名・没年なども不明なまま。

 

<屋敷跡>墓所のある土地所有者のお宅が三科形幸屋敷跡と伝わるところ。こちらも「甲陽重家録」に紹介されている場所ですが、特に三科形幸屋敷としての跡はないようです。「上神内川邑の名族」といわれる三科氏の屋敷がナゼ上神内川から少し離れたここなのか不明なまま、さらに「御子孫」がいたのかどうかもハッキリしていないはずの三科形幸。もともと不明な点が多い人物ではあるのですが、ちょっとした武田好きには有名な人物の一人のはず。こちらに紹介した墓所・屋敷跡などはほとんど紹介されていないので、そのあたりが学問的に「?」なのですが、とりあえず三科氏を感じてみましょう。もちろん引き続き私も調べていきます。

駐車ですが道の反対側に消防の詰め所、共選所があるのでそちらを使用しています。

なお、「赤備え―武田と井伊と真田と」という書籍には三科肥前守形幸着用の甲冑写真が掲載されています。もちろん表題の通り、赤備えの事も。こちらもゼヒみてみては?

周辺の甲斐武田氏関係地:勝沼氏屋敷跡小佐手氏菩提寺など

参考文献:甲陽重家録・武田氏年表-信虎・信玄・勝頼/武田氏研究会赤備え―武田と井伊と真田と/井伊達夫など

<2009/7/21>