甲斐武田を探検っ!!

        恵林寺 武田信玄墓所など(有料ゾーン)

 

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恵林寺境内の紹介はこちらへどうぞ。

史跡・関係地名:臨済宗妙心寺派乾徳山恵林寺 武田信玄・家臣団墓所など

住所:山梨県甲州市小屋敷

場所のわかりやすさ:◎

駐車場:◎

説明板:◎

売店:◎

地図:

  

関係人物:武田信玄・山県昌景馬場信春内藤昌秀春日虎綱原昌胤・柳沢吉保・松浦鎮信など

乾徳山恵林寺、境内も見所が多いのですが、よりしっかり見ておきたい本堂内と信玄公宝物館は有料となっています。本堂の拝観料は大人300円小中学生100円、宝物館は大人500円高校生400円小中学生100円となっています。両方が見ることができる共通券もあり大人700円高校生400円小中学生200円です。拝観時間は8:30〜16:30になりますのでご注意ください。

<信玄公宝物館>武田信玄から武田二十四将はもちろんのこと、柳沢吉保の史料などが展示されています。資料館入口では武田グッズ・二十四将のちょっとした書籍なども販売していますので、そちらもご覧になってください。展示物は書籍などでみたことのある肖像画や古文書の数々・・・、とてもおすすめです。なお恵林寺に残されている「武田二十四将」ですが、武田信繁武田信廉穴山信君・板垣信方・甘利虎泰・馬場信春・飯富虎昌・山県昌景・高坂昌信(春日虎綱)・真田幸隆(幸綱)・内藤昌豊(昌秀)・秋山信友(虎繁)・三枝守友(昌貞)・原虎胤・小山田信茂多田満頼・真田信綱・土屋昌次(昌続)横田高松小幡(小畠)虎盛・曾根昌世・原昌胤・真田昌幸・山本勘助となっています。「武田二十四将」は江戸時代に考えられたもので、残されている史料によって武将の食い違いがあります。各人物は信虎〜勝頼の年代に活躍した武将なので年齢にひらきがあり、当然ですが信虎期と勝頼期ではかなりの年月の差がありますので、二十四将一同が揃って軍議をひらいたということはありません。二十四将選定基準はどうやら人気順のような感じですね。せっかくなので、「マイ二十四将」というのを考えてみても楽しいのでは?

<乾徳山恵林寺本堂内>拝観料を支払い、じっくり本堂内を見ながら進んでいくと、不思議な音色のうぐいす廊下、重みのある家臣団の位牌、そして武田信玄を模して製作されたという武田不動尊があります。仏像などの知識はないのですが、武田不動尊はその堂々さに感動しました。さらに案内に従いながら裏にまわり、武田信玄墓所・家臣団墓所・柳沢吉保墓所・二階堂道蘊(どううん)墓所、そして国指定名勝の恵林寺庭園があります。じっくりたっぷり堪能してください。

  

<武田信玄公墓所>法名は恵林寺殿機山玄公大居士。信玄は大永元年(1521)十一月三日生まれ、元亀四年(元号は七月から天正元年になります/1573)四月十二日53歳で死去します。墓所には350cm前後の五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並びます。墓は寛文十二年(1672)四月十二日、信玄公百回忌が行われた際、武田家子孫・旧臣の協力を得て建立されたものです。

<家臣団墓所>信玄公の墓所を見終わり進んでいくと次は家臣団墓所となっています。敷地内は立ち入り禁止ですが、なんとか写真に収めることができた墓があるので、全てではないですが紹介します。実際には七十基ほどあるようです。

  

左から武田兵庫助信實(信実)、馬場美濃守信房(信春)、横田備中守源高松の墓です。

武田信實は河窪信実のほうがお馴染みでしょうか。信虎の子で信玄の弟の一人です。雁坂口(甲斐・武蔵国境)を守りました。設楽ヶ原合戦の際には鳶ノ巣山砦を防備。砦は陥落、信実は討死します。

馬場美濃守信房(信春)は元武川衆の教来石氏。信虎〜勝頼まで三代に仕えます。信玄の代に戦功により馬場氏を継ぎ、武田重臣になりました。周囲からは一国の主にふさわしい人物と評されました。設楽ヶ原合戦で殿となり討死。

横田備中守高松は伊勢もしくは近江出身といわれ、信虎期・信玄の初期に活躍した足軽大将の一人です。東信濃攻略時には大いに働いたとか。天文十九年(1550)十月一日、武田軍は信濃の村上軍が籠る戸石城を攻めますが、失敗し撤退。その際横田備中守は殿をつとめ討死します。

  

左から原隼人介昌勝(昌胤)、山県三郎兵衛尉昌景、高坂弾正忠昌信(春日虎綱)の墓です。

原昌勝は原隼人佑昌胤ですね。父加賀守の代から重臣として活躍。信玄の代には側近として多くの朱印状奉者になっています。また地勢を読むことが得意で、信玄から絶大な信頼を受けました。設楽ヶ原で討死。

山県三郎兵衛尉昌景は武田家臣でも有名です。元は飯富(おぶ)氏、義信謀反未遂事件の首謀者として兄飯富虎昌が処断されたあと、信玄の命で山県氏を継ぎ重臣に。赤備えが有名で徳川家康にも恐れられました。設楽ヶ原で火縄銃で撃ち抜かれつつ口で軍配をくわえたまま討死したとも言われています。

高坂弾正忠昌信は最近の研究で春日虎綱という名が正しく、一般的になりつつあります。石和の農家の子から信玄の信頼をうけ近習から重臣に出世。信玄死後も北信濃で勝頼を支えます。武田家の衰退を憂いつつ天正六年(1576)病死。

  

左から駒井越後守(筑後守)信為、金丸筑前守虎義、内藤修理亮昌豊(昌秀)の墓です。

駒井信為は筑後守と称しています。彼は高白斎記(甲陽日記)著者と言われる駒井高白斎の兄。信為は信玄・勝頼の代に要害山城の城番をつとめます。

金丸筑前守源虎義は子には土屋昌続秋山昌詮土屋昌恒らがいます。昌続は信玄側近、昌詮は秋山虎繁後継、昌恒は最後まで勝頼に付き添った人物。こうして見るとかなり優秀な子が多いですよね。虎義自身は信玄のそばで活動しており、朱印状奉者などで見ることができます。

内藤修理亮昌秀は元々は工藤氏。信玄の命で内藤氏を継ぎます。武田信繁死後の甲斐の副将と言われた重臣。三増峠の戦いで西上野(現群馬県西部)郡代浅利信種が討死すると、そのあとを任されています。設楽ヶ原にて討死。

 

左は広瀬清八景房の墓。彼は山県衆の一人。勝頼の代(設楽ヶ原のあと)に足軽大将になります。武田滅亡後は井伊氏に仕え直政をよく補佐するなどして活躍します。徳川家康にも一目置かれていました。

右は小幡勘兵衛尉景憲の墓となります。武田二十四将の一人として数えられることも多い小幡昌盛の子で、甲陽軍鑑編者と言われます。

武田家臣団以外にも墓があります。

 

<松浦肥前守鎮信墓>まつらしげのぶ。武田家臣団墓所の中にあります。彼は江戸時代の肥前平戸藩主で武田信玄を崇拝していました。その事から信玄の菩提寺に自らの墓をつくりました。

柳沢吉保墓>柳沢氏はもとは武川衆、武田氏があったころは甲斐・信濃国境警備などを担っていました。武田滅亡後天正壬午起請文で徳川に忠誠を誓います。それ以降柳沢家は飛躍していきます。

<二階堂道蘊墓>にかいどうどううん。二階堂貞藤とも。恵林寺開基です。鎌倉時代元徳二年(1330)創建の恵林寺ですが、その当時は二階堂氏がこの地を領していました。彼に請われ、夢窓国師が来甲し二階堂道蘊の邸宅を禅院にしたのが恵林寺の始まりです。

周辺の甲斐武田氏関係地:放光寺松尾神社向嶽寺など

参考文献:甲斐国社記寺記・戦国遺文武田氏編・山梨県史資料編・新編武田信玄のすべて・武田信虎のすべて・武田勝頼のすべて・恵林寺HP他

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 <2009/5/18 2010/2/13リニューアル>