甲斐武田を探検っ!!

       小山城跡

 

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史跡・関係地名:小山城跡

住所:山梨県笛吹市八代町高家

場所のわかりやすさ:○

駐車場:○

説明板:△

売店:×

地図:

関係人物:穴山伊豆守・穴山信永・鳥居元忠など

<穴山氏と小山城>甲斐国志によると、小山(こやま)城が歴史舞台に登場するのは武田信重の時代。明徳二年(1450)十一月二十四日穴山一族の「小山城主」穴山伊豆守が、黒坂太郎討伐の準備をしていた小石和館の武田信重を急襲。信重を自刃に追い込んでいます。伊豆守は当時河内地方に進出し始めた穴山満春の子ですが、素行が悪いという理由で後継からはずれ、穴山氏は武田家からの養子が継ぎます。伊豆守はそれにより、穴山氏の領地であったと思われる小山城周辺を領し、フツフツと反武田に気持ちが動いていたのではないか?と言われています。素行云々・・・というのは、おそらく伊豆守と武田家・穴山家との内外交の考えなどが合わなかったため、そのように言われるようになったのでは・・・と勝手に考えていますがいかがでしょう。のちの信虎・義信然りです。

武田信重を滅ぼした伊豆守ですが、その後史料などに一切登場しなくなっています。武田氏もしくは近隣の八代(奴白/ヌバクとも)氏などにより滅ぼされてしまったのでは?と考えられていますが、結論は出ていません。伊豆守の後の小山城は穴山宗家直轄もしくは武田家直轄か、近隣の武田一族である八代/やつしろ(奴白/ぬばくとも)基経が継承したのではないかと思われています(穴山武田氏)。

のちに武田信虎が武田家を継ぎ、しかしながらまだ甲斐統一がされてなかった時期、穴山氏分家として伊予守(宗九郎)信永が小山城とその周辺を領しますが、大永三年(1523)三月十三日郡内地方から鳥坂峠を越えてきたと思われる南部某に攻められ、花鳥山で迎え撃ちますが敗退。さらに小山城に籠城しようと試みますが敵の勢いに負け、常楽寺で一族郎党自刃したと伝わります。信永を滅ぼした南部某は、奥州に移住した南部氏のうち甲斐に残った一族と思われます。元々河内地方南部を本領としていた南部氏と河内地方北部から徐々に進出していく穴山氏。領地が隣り合い、争いが頻発していたと考えられています。局地的な争いに終わらず、周囲の武田家・今川家・他甲斐国人衆を巻き込んでいたようです。

 

北側土塁には穴山伊予守信永の石塔があります。八代町誌によると、かつては本丸にありましたが、昭和四十三年現在地に移転されたのだとか。土台には「法城寺」と刻まれているようなのですが・・・。確認できませんでした。

<天正壬午時は・・・>天正十年(1582)武田家滅亡後、甲斐は織田家の支配になりますが、本能寺の変により事態は急変。甲斐を治めていた河尻秀隆は武田旧臣の蜂起により討死。甲斐国内は空白地帯、その他の旧武田領国も織田家臣が撤退するなどして、徳川家・北条家・上杉家などが狙う土地となりました。このことを天正壬午の乱と呼びます。当初は北条軍が圧倒的に有利に進め、上杉軍は北信濃の進出にとどまるのみ。しかし、武田旧臣を味方につけた徳川軍は、彼等による先導などで局地戦で勝利し盛り返していきます。ここ小山城も鳥居元忠が入り改修、北条軍の御坂城、さらには鎌倉街道(御坂路)などの監視を行っています。武川衆や津金衆、穴山衆などの活躍により、北条軍は補給路の確保が困難になるなどし、徳川軍と和睦。甲斐の国中地方は徳川家のものとなります。

  

<現在の小山城>城跡の周囲にはしっかりと土塁と堀跡が残ってます。ただし、土塁内部の郭部は整地されてしまっており、周囲を囲む土塁も南側は崩されてしまっています。整地された郭内は近年になってから。周囲の土塁などは天正壬午の乱の際に徳川軍により、修築されたものと考えられています。土塁に登るとよくわかりますが、土塁の外の北西側には物見塚と言われるものも確認できますし、方形の城跡もしっかり確認できます。

  

現在、城跡には桜が植えられ、周囲には日本国内有数の桃畑が広がっています。三月下旬から四月上旬は桜・桃・スモモなどの花が咲き乱れる、すばらしい眺めを楽しむことができます。 

周辺の甲斐武田氏関係地:常楽寺正因寺花鳥山など

参考文献:穴山武田氏/平山優・天正壬午の乱/平山優・甲斐国志・武田信虎のすべて/柴辻俊六・八代町誌など

<2006/8/11 2011/3/27リニューアル>