甲斐武田を探検っ!!

 

光沢寺

 

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こちらのお寺は青沼通りをはさむ形であり、市街地にも関わらず大きい駐車場があります。またその駐車場に入るとお寺とは感じるのがなかなか難しい近代的な建物が迎えてくれます。

甲斐武田の時代、一条小山(甲府城跡/現舞鶴公園)の北西、現在の甲府駅付近に長延寺という一向宗のお寺があったそうです。「長延寺」で思い出すのが、「長延寺実了師慶」。彼は上杉憲政の一族で、上杉家没落後武田信玄の呼びかけにより来甲、長延寺を開いたんだそうです。実了は信玄の各国使者として、主に伊勢長島・大坂・一向宗・越後上杉氏へと赴いています。また、教養ももちろん兼ね備えており、永禄九年(1556)一蓮寺歌会に出席しています。

長延寺二世となったのが、顕了道快。武田信道ともいい、武田龍宝(信玄二男)の子です。ちなみに龍宝は実了の弟子だそうです。武田家滅亡時、龍宝は入明寺で自害しますが、顕了は父に逃がされ信濃に隠れます。その後本能寺の変が起こり織田信長が亡くなり、甲斐が徳川家の統治下に入ると顕了は信州から呼び戻されます。

江戸時代になり、のちに大久保長安による不正事件(幕府転覆未遂とも)が発覚、それに連座して顕了は大島に流罪、長延寺は廃寺となってしまいます。しかし東本願寺の嘆願により、お寺の名を変え「光沢寺」として存続を許されたんだそうです。

 <2007/2/19>