甲斐武田を探検っ!!

       日向山光村寺

 

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史跡・関係地名:日向山光村寺 日向大和守墓所

住所:山梨県北杜市高根町村山北割

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○

説明板:×

売店:×

地図:

関係人物:日向大和守虎頭・日向大和守是吉・日向藤九郎昌成など

 

<日向氏と光村寺>晴れていると八ヶ岳が良く見える、周囲はのどかな風景が広がる浄土宗瑞泉寺末光村寺。甲斐国社記寺記によると光村寺開基は「景照院殿光岳村公居士」、天正十年(1582)三月二十一日に死去した日向大和守昌時だと伝わっています。彼の墓所は本堂裏手にあります。

<二人の大和守>大永八年(1528)現須玉町の比志神社造営棟札(建築者・年月日などが記入された、建造物内側に打ち付けられる札です)に子息虎忠とともに「大旦那日向大和守是吉」という名が残されています。天文十九年(1550)七月、武田氏は信濃の小笠原氏と戦い深志城を攻略しています。その後、小笠原氏の反攻をうけますが、馬場民部(後の美濃守信春)とともに戦ったのが大和守是吉(玄徳斎宗栄)。城に攻め寄せてきた小笠原勢を撃退しています。彼は甲陽軍鑑の中で荻原常陸守・板垣信方・甘利備前守飯富兵部原加賀守諸住豊後守小宮山丹後守と並び「武田信玄公御家老軍法工夫之衆、侍大将」の八名のうちの一人に数えられています。ちなみに日向大和守以外の七名は、武田家臣の中でも特に著名な人物であることは、十分おわかりのはず・・・

数年前までは日向大和守=日向大和守是吉=光村寺開基とされていました。日向大和守は天正十年(1582)織田軍の信濃侵攻をうけ、城代であった大島城から撤退、所領村山で自害と伝わります。しかし大永八年(1528)比志神社棟札から天正十年(1582)の村山にて自害という事件を同一人物として考えると、是吉がかなり長生きしてしまったことになってしまいます。そのような中で、最近の研究によりあと一名「日向大和守」を名乗った、日向大和守虎頭(とらあき)がいたことが明らかになっています。天文十九年(1550)十月の武田軍が大敗した戸石合戦後の翌年、信濃の松原諏訪神社に奉納された願文に「日向大和守虎頭」という名が出てきます。入れ替わるようにそれ以降、是吉の名は文書などには出てこなくなります。そのような点を踏まえて、是吉は戸石合戦で討死?とも考えられていますが、いずれにせよこのあたりの年で死去したものと思われています。この「虎頭」という人物が先ほどの比志神社棟札に記されている子息「虎忠」と同一人物で、父と同じ大和守を用いたのでは?と考えられています。

天正十年(1582)武田氏滅亡時、信濃大島城を守った、武田信廉(信玄弟)の副将だったとも伝わる大和守虎頭。織田軍侵攻で信廉が信濃大島城を退去する際、城代だった彼は城を枕に討死しようとしますが、家臣らに無理やり(騙され?)城外へ連れ出されてしまいました。虎頭はそのことに憤慨し、次男(だと思われています)次郎三郎とともに所領巨摩郡村山で自害。

嫡男の昌成は永禄七年(1564)上野倉賀野にて戦死しています。日向氏で残されたのは大和守是吉の娘婿と考えられる日向玄東斎宗立、その子伝次郎政成と続く家系になります。彼らは武田氏滅亡後、徳川氏に仕えています。

光村寺開基の「景照院殿光岳村公居士」は、没年などから現在では虎頭の法名と考えられています。よって、虎頭=昌時と考えられます。

 

<日向大和守墓>日向大和守の墓所です。上記のようにココまで明記されるとわからないということはないはず。こちらには大和守夫妻、さらには子の藤九郎(昌成・まさしげ)の墓もあるそうですが・・・確認し忘れてます・・・

周辺の甲斐武田氏関係地:昌照寺伝山本勘助屋敷跡など

参考文献:武田氏年表-信虎信玄勝頼/武田氏研究会・新編武田信玄のすべて/柴辻俊六編・武田氏研究第25号など

<2006/8/11 2010/8/12リニューアル>