甲斐武田を探検っ!!

 

山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡(古府中)

 

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古府の図」武田二十四将屋敷図に記載されている山県昌景屋敷跡です。中学校があるのですが、ホボその辺ということなのでしょうね?学校入口に案内看板はあります。看板ですが元気なお子さんが多いんでしょうね、チョットずつ隅っこがはがされていて、屋敷跡の看板の中では一番最初に原型がなくなってしまうのではないでしょうか・・・(笑)躑躅ヶ崎館(現武田神社)からは意外と?離れていました。それでも武田神社から徒歩5分も歩けばつくかなぁ?(笑)または護国神社に車を停めて武田神社方面に歩き、小さめのスーパーがあるのでそこを南(左手)に・・・でトコトコ歩くと左に見えてくるはず。この方法のが早いです、ぶっちゃけてしまいますと。

さて、その場所の写真は下の3枚。、上左は北(武田神社方面)からの屋敷跡、そのまま南に行くと小幡虎盛・昌盛屋敷跡があります。そして上右は南(小幡氏屋敷跡)からの写真。下の写真は正面から。もちろん、屋敷の跡形は何もないです、ただ看板があるだけです。

 

山県昌景は飯富(おぶ)虎昌の弟。飯富虎昌は信虎・信玄の中心的な武将として活躍しますが、信玄の長男、義信の謀反事件の責任を負い永禄八年(1565)成敗されてしまいます。その時、義信・飯富虎昌らの不審な行動を信玄に告げたのは昌景だと伝えられていますね。その後信玄の命により、山県氏の跡を継ぎます(信虎の代に山県河内守虎清という譜代家老がいましたが、外交上のことを諫言、天文年間中に彼に殺されたと伝わっています)。

彼は様々な合戦に参加。その功などにより駿河江尻城代に任命されています。さらに信玄の西上作戦でも徳川家康を今一歩のところまで追い詰めています。後世、武田四名臣(他に馬場信春・春日虎綱・内藤昌秀)と称されてもいますよね!

信玄亡き後は、家臣団の崩壊(まだ表立ってはいなかったですが、実際は一門・譜代や甲斐衆・他国衆、武断派・文治派などなど多くの問題を抱えていたようですね)の中で、天正三年(1575)長篠にて壮絶な討死を遂げたと伝わります。

ちなみに彼の後継は昌満、長男昌次は父とともに長篠で討死。昌満は武田氏滅亡時、織田軍につかまり斬首されています。

 

山県三郎右兵衛尉昌景

「赤備え」などといわれるように赤を基調とした軍勢でしたか、映画などで見られるように「全身真っ赤」ということはなかったようです。

顔写真は説明板のものを使用させていただいています。

 <2008/2/10>