甲斐武田を探検っ!!

 

小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡(古府中)

 

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最初にお伝えしておきますが、「小畠虎盛」は数年前まで「小幡虎盛」でした。最近の研究の成果で、遠江の浪人で武田信虎に仕えた日浄(盛次とも)、その子虎盛までは小畠と名乗っていたそうです。子で跡を継いだ昌盛が小幡に改姓したそうです。

古府の図」武田二十四将屋敷図に記載されている山県昌景屋敷跡の南に小幡氏屋敷跡があります。山県氏屋敷跡前の道をそのまま下ると見えてきますので、簡単ですね!武田神社から小幡氏屋敷を目指すと必然的に山県氏の屋敷前を通過することになりますので。

さて、その場所の写真は下の3枚。、上左は北(武田神社方面)からの屋敷跡、そのまま南に行くと小幡虎盛・昌盛屋敷跡があります。そして上右は南(小幡氏屋敷跡)からの写真。下の写真は正面から。もちろん、屋敷の跡形は何もないです、ただ看板があるだけです。

 

小畠虎盛は、前述したとおり父日浄に連れられ来甲。信虎に仕えた父は永正十五年(1518)甲斐国人の今井信是との戦いで討死。その後継として信虎・信玄に仕えます。虎盛は信虎の初期から戦で活躍しています。また足軽大将衆五人衆としても知られています(他に多田満頼・原虎胤・山本勘助・横田高松)。のちの信玄の信任も厚く海津城副将ともなっています。しかしながら、第4次川中島合戦直前に病死しています。

その虎盛を継いだのが昌盛。前線にいることより信玄の側に仕えたいと懇願し信玄の旗本になったと伝わっています。彼も様々な戦で活躍しますが、武田家滅亡時には重い病気のため甲斐善光寺の門前で勝頼に最後の別れを告げ、主家滅亡の5日前に死去します。彼の三男が「甲陽軍鑑」編者として知られる小幡景憲です。

 

小畠山城守虎盛

遺言は「よくみのほとをしれ」。今川氏の将、福島正成を討ったとも伝わっている、「鬼虎」です。

小幡豊後守昌盛

「赤備え」としても有名な上州小幡氏とは特につながりはないようです。彼の目には勝頼の落ちていく姿、どのようにうつったのですかね・・・

顔写真は説明板のものを使用させていただいています。

 <2008/2/18>