甲斐武田を探検っ!!

 

内藤修理亮昌豊屋敷跡(古府中)

 

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古府の図」武田二十四将屋敷図に記載されている内藤昌豊屋敷跡です。当然案内用看板がしっかり建っています!躑躅ヶ崎館(現武田神社)の西曲輪(義信が住むために拡張された曲輪!)南に位置しています。地名でいうと「屋形」になります。武田神社から徒歩5分もあればバッチリ!の場所です。

下の写真、左は西からの屋敷跡、道路の右手が屋敷跡。真ん中は正面から写真撮りました、何も残ってはいませんけど。そして、右は東からの写真。道路右手に見えているのは松木堀というそうです。武田家滅亡後に造られたものです。

内藤昌豊、実名は昌秀(まさひで)になります。最近出版されている書籍などには「昌秀」で記載されているのもが多いですね!説明用看板に「内藤修理亮昌豊」と記されているのでタイトルを「昌豊」にしました。

さて内藤昌秀、もとは工藤氏。武田家の譜代家臣工藤下総守虎豊の次男として生まれます。工藤虎豊は信玄の父信虎に仕えていましたが外交上の問題などを諫言し、天文年間中信虎に殺されます。長男工藤長門守昌祐(武田家滅亡後、徳川家甲斐四奉行をつとめた工藤玄随斎と同一人物では?とも)と昌秀は甲斐を逃れ関東を流浪します。その後、信虎が追放されたので武田家に再度仕え、多くの合戦で活躍し信玄に認められ、信虎に諫言し工藤虎豊と同じ様に誅されていた内藤氏の名跡を継ぎます。そして当初西上野箕輪城代をつとめていた浅利信種(源平合戦で有名な浅利与一の子孫)が三増峠で討死したあと、そのあとを継ぎ北条・上杉に相対して重任を果たしています。武田信玄からとても信用されていますね。

昌秀は「信繁あとの甲斐の副将」と後世称されたりしていますので、「冷静沈着な・・・」というイメージが自分の中にはありました。が、甲陽軍鑑を見てみると、信玄没後に重臣らの会議の席で長坂長閑斎と言い争いになり、あげくに切りかかろうとしてしまい、驚いた山県昌景や馬場信春らになだめられる・・・ということもあります。結構熱い人物だったようです。

その後、長篠にて多くの同僚らとともに内藤昌秀も討死、そのあとは養子(保科正俊の子)の昌月(まさあき)が継いでいます。

ちなみに彼の所領は、若神子(現北杜市須玉町若神子)にあったと伝わっています。

 

内藤修理亮昌秀

昌秀の墓所は子昌月とともに群馬県高崎市にあります。法名「善龍院殿泰山常安大居士」。

顔写真は説明板のものを使用させていただいています。

 <2008/1/22>