甲斐武田を探検っ!!

       迦葉坂

 

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史跡・関係地名:迦葉坂・中道往還

住所:山梨県甲府市右左口町

場所のわかりやすさ:○

駐車場:×

説明板:×

売店:×

地図:

関係人物:依田信蕃・横田尹松など

天正十年三月十一日、武田勝頼・信勝父子は田野の地で討死し、武田家は滅亡します。織田信長は四月二日甲斐に入り、三日には府中に入っています。その後仕置きを終え、四月十日甲府を出発、その日は迦葉坂下にある右左口宿で一泊。十二日は中道往還を行き、富士山を眺め駿河に入り、二十一日には安土城に帰っています。

 

<みんな集まれっ!!>武田家滅亡時、駿河田中城を守っていた依田右衛門佐信蕃(のぶしげ)は、武田敗北を知り徳川方に開城。その際徳川から「家臣に」という誘いを受けますが、勝頼の生死がハッキリしない中徳川には仕えることはできないと拒否し、彼は三月十四日本領のある信濃に帰っています。その後、織田家に出仕しようとしていたとき、織田家から処刑令が出ていたことを知った信蕃は密かに徳川家康を訪問、遠江に匿われます。

六月二日明方、京都本能寺で「本能寺の変」が勃発し、織田信長は行方不明に。それを知った武田旧臣などは一揆を起こし、甲斐を治めていた織田家臣河尻秀隆を急襲、六月十八日河尻は討死してしまいます。それより前、徳川に匿われていた依田信蕃は堺から逃げてくる家康から書状を受け取り「甲斐での武田遺臣の調略と信濃の依田本領回復」という命を受けます。それを受けた依田信蕃は、六月十二日中道往還の迦葉坂(かしょうざか)で彼の旗である「鐘ノ旗」を掲げ、武田遺臣などに結集を呼びかけます。その行為はたちまち甲斐国内に広がり、横田尹松(原虎胤子、高松養子)ら武田遺臣が続々と現れ3000人にも達したのだとか。信蕃はこれを率いて六月二十日には小諸に入ったと伝わります。依田信蕃は佐久地方での一大勢力となり、徳川方と連携し、北条方からの圧力に屈せず「天正壬午の乱」を乗り切ります。また、真田昌幸の徳川帰属を成功させたのは彼と言われています。

 

写真撮影した場所は迦葉坂入口付近。迦葉坂は中道往還の「難所」といわれており、この坂を進むとさらに厳しい道となります。標高も高くなり確かに眺めも良くなるはずだと思いますが、甲府盆地からはうまく見えなると思います。結局、迦葉坂のどの辺りかはわかりませんが、依田信蕃は旗を識別できる見やすい場所に立てて武田旧臣を集めたのでしょう。

 

<右左口宿>迦近葉坂近くには中道往還右左口宿があります。迦葉坂に向かう際にはココを通らなければ行けません。昔の風情を探すのは難しいかもしれませんが、それでもなにか懐かしさを感じる場所です。

迦葉坂には駐車場はありません。また、そのまま迦葉坂を昇ると自動車では通行不可能になるようなので(未確認で申し訳ありませんといいますか、道らしい道ではなくなります)気をつけてください。

周辺の甲斐武田氏関係地:東照神君御殿場・中道往還右左口宿など

参考文献:天正壬午の乱/平山優・武田氏年表信虎信玄勝頼/武田氏研究会など

<2011/4/3>