甲斐武田を探検っ!!

       萬照山三光寺跡

 

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史跡・関係地名:萬照山三光寺跡

住所:山梨県甲府市和田町

場所のわかりやすさ:×

駐車場:×(スポーツ公園に・・・)

説明板:×

売店:×

地図:

 

関係人物:今福昌弘夫妻など

<ひっそりと三光寺跡>武田勝頼墓所がある法泉寺を東に進むと左手の山腹?に石像群が並ぶ場所があります。それは三光寺跡の石像群。付近にはスポーツ公園があり、ウォーキングをされる方のコースになっているのでしょうか。比較的人とすれ違います。駐車場が周辺にはないので、スポーツ公園などに停めて、ウォーキングがてらどうぞ。

臨済宗妙心寺派法泉寺末萬照山三光寺、甲斐国社記寺記によると今福筑前守菩提寺とされています。月舟大和尚開山、今福筑前守が開基と伝わっています。

 

  

<今福氏と三光寺>かつてこちらのお寺には今福筑前守和夫婦の位牌があったと甲斐国志では伝えています。筑前守昌和の法名は「明叟得永禅定門」天正十年(1582)四月五日とあり、また夫人は「三光寺殿青山理秀禅定尼」元和八年(1622)十月二十九日竹内氏とありました。

今福筑前守昌和は今福浄閑斎の次男。浄閑斎長男の丹波守虎孝は父浄閑斎と行動をともにし、徳川軍の駿河侵攻で城代を務めていた久能城付近で父とともに戦死。浄閑斎三男は和泉守昌常、勝頼側近と伝わり武田家滅亡後の、徳川家に忠誠を誓った天正壬午甲信諸士起請文では駒井昌直とともに取りまとめ役となっています。その後の消息は不明なのですが・・・。話が少しずれましたが、浄閑斎次男である筑前守昌和(昌弘とも)。市左衛門尉と称したときもあります。その筑前守、天正四年(1576)から信濃諏訪高島城代を務めたとされ、天正十年二月木曽氏征伐の為、信濃鳥居峠にむかいますが、木曽軍と織田援軍に敗退。戦死したとも言われます(甲陽軍艦)。実際には戦いには敗れますが生き延び、高遠城に籠城。仁科盛信とともに三月三日討死します(武田勝頼のすべて)。

夫人は「竹内氏」と残されていますが、誰なのでしょうか?名の知られたところだと、竹内与五左衛門がいます。彼は武田勝頼(当時はまだ諏訪勝頼)が高遠城に入る際付属した、侍大将八人衆の一人。しかし、彼の関係した人物かどうかもわかっていません。三光寺についても、詳しいことはよくわかっていない(残されていない)のが実状。このまま忘れ去られそうで、残念ですね。石仏・墓石など、まだ詳しく観察していませんので、また時間を見つけて行ってみます。

周辺の甲斐武田氏関係地:法泉寺湯村山城など

参考文献:甲斐国志・甲斐国社記寺記第2巻・天正壬午の乱/平山優・武田勝頼のすべて/編柴辻俊六平山優など

<2011/5/22>