甲斐武田を探検っ!!

       光沢山青松院

 

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史跡・関係地名:曹洞宗光沢山青松院(こうたくざんせいしょういん) 山宮氏菩提寺

住所:山梨県甲府市山宮町

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○

説明板:△

売店:×

地図:

関係人物:山宮民部少輔信安・山宮信章(武田伊春)など

<光沢山青松院>寺記によると大永二年(1522)創立と伝わる青松院は、竜王の慈照寺末寺筆頭。開基は山宮信章(もしくは武田伊春/ただはる)。山宮氏は武田信満(生年不明-応永二十四年/1417没)の六男として生まれた信安が山宮の地に居を構えたことからはじまります。山宮氏館の館は青松院の場所と伝わっていて、寺記によると信安は明応元年(1492)討死しますが、そのとき母親の腹にいたのが五男の信章。彼は後に甲斐をおさめた武田信虎の助力を得て、館跡地に山宮氏菩提寺である青松寺を建立したと伝わります。

 

 

 

<山宮氏について>山宮氏ですが、情報が多く残っていません。その中でですが、明応元年(1492)には武田信昌後継者、嫡男信縄と信昌の後押しを受けた次子信恵との戦いで多くの山宮氏が討死しており、一蓮寺過去帳には山宮右近(法名与阿弥陀仏)・同聰六(錦阿弥陀仏)・同七郎(光阿弥陀仏)・同新九郎(理阿弥陀仏)が見えます。山宮信安も同年討死と伝わっているので、同じ戦で討死?もしくはこの中に含まれているのでしょうか?

他の山宮氏としては、天文二十二年(1553)第一次川中島援軍に山宮氏が飯富左京亮とともに出陣(高白斎記)、永禄六年(1563)跡部伊賀守・板垣左京亮とともに上野国和田城防備のための指示を受けた山宮氏、永禄七年(1564)上野和田城防備の援軍として派遣される山宮右馬允、勝頼期の文書発行者に山宮右馬助などが見られる程度です。これらの人物が山宮信安らとどのように関わっているのかは不明です。

話は変わりますが、前述した武田信満と山宮信安の流れ。武田信満が討死したのが1417年。子の信安が討死したのが1492年となっており、信安は随分長生きしたことになってしまいます。この時代の寿命(討死ですが・・・)としてはいかがなものかと考えるのですが。そのように考えることも楽しいですよね。

周辺の甲斐武田氏関係地:攀桂寺法泉寺など

参考文献:甲斐国社記寺記・武田氏年表―信虎・信玄・勝頼青松院HPなど

<2010/5/28>