甲斐武田を探検っ!!

       国母稲積地蔵

 

 史跡一覧へ

 人物一覧へ

 トップへはこちら→

kfm033

<史跡・関係地名>国母稲積地蔵立像(甲府市指定民俗有形文化財)/法城寺跡

住所:山梨県甲府市国母8丁目

地図(別ウインドーになります)

場所のわかりやすさ:×(住宅地です)

駐車場:×(住宅地です、ご注意ください)

説明板:△(国母稲積地蔵説明板があります)

売店:×

<関係人物>武田信玄・武田信虎・原加賀守など

<国母地蔵>甲斐国志に稲積国母地蔵縁起が記されています、「養老年中行基菩薩本州ニ来リ南山ヲ裂キ洪水ヲ治メシ時地蔵大士ノ像ヲ刻シテ篠原岡ニ祭り法城寺ト号ス治暦中斯羅三郎此地ヘ移シ永禄中信玄古府ヘ移シ後又板垣郷東光寺ニ移シテ今ニ現在セリ」。つまりは・・・、養老年間(717-724)に行基は甲斐に来ます。そして甲斐国内の洪水を治めますが、そのとき地蔵を彫り篠原というところに祀り法城寺とします。後に新羅三郎はこの地に移し、さらに永禄年間(1558-1570)武田信玄は東光寺に移します・・・というような意味でよいのか、と。

しかし高白斎記によると、大永七年(1527)信虎が新たにつくった館(躑躅ヶ崎館)近くに移転と記されていますので(武田信虎のすべて)、実際は信虎が国主としての事業で府中に移転させています。その後東光寺に移すのは天正年間の徳川家康となるのですが、この地には代仏が置かれることになったそうで、それが現存する地蔵様です。このお地蔵様は欅の一本つくりで2mあるそうです。

 

地蔵様の写真ですが、入口ドアのガラス越しに撮影しましたので、微妙な感じになっています、申し訳ないです・・・。

<法城寺>甲斐国志によると、法城寺に祀られていた国母地蔵ですが、しかし信玄の命で国母地蔵が東光寺に移された際、法城寺も当然移転しています。その法城寺(ここの法城寺は地名から上条法城寺と呼ばれています)には武田家家臣に関する言い伝えが残されています。

この近くの高畑の地を領していた武田家臣の原加賀守。加賀守は逸見氏娘を妻として迎えますが、彼女は亡くなってしまい、上条法城寺に葬ります。しかしながら数日後彼女はなんと蘇生、再び加賀守の元に帰ってきます。驚いた加賀守でしたが受け入れ、そして誕生したのが、のちの原隼人佑昌胤。二十四将にも数えられ、戦場では陣場奉行として大いに活躍。信玄も絶大な信頼を置いた甲斐武田の重臣です。その隼人佑を出産した彼女、三年後に今度は永遠の眠りについたのだとか・・・

 

敷地内の角なのですが、寺院跡を連想される石塔なども。「法城寺」という名前ですが、漢字を分解すると「シ=水が去り」「土と成る」という意味があります。甲斐国内の水害と多いに関係のある国母地蔵=法城寺です。

伝説にもなにか訳があるのでは・・・と思うと、楽しいですね。ちなみに周辺は住宅地。道路も細いので、注意して下さい。

周辺の甲斐武田氏関係地:国母熊野神社・雪窓院・笠屋天神など

参考文献:甲斐国志・武田氏年表信虎信玄勝頼/武田氏研究会・武田信虎のすべて/編柴辻俊六・甲府市HPなど

<2011/6/27>