甲斐武田を探検っ!!

       河尻塚

 

 史跡一覧へ

 人物一覧へ

 トップへはこちら→

kfc022

史跡・関係地名:河尻塚(河尻肥前守秀隆首塚・さかさ塚・悪逆塚・河尻肥前守屋敷跡)

住所:山梨県甲府市岩窪町

場所のわかりやすさ:△

駐車場:△(月曜日は駐車場ありません)

説明板:○

売店:×

地図:

 

関係人物:河尻秀隆・三井弥一郎など

<悲劇の織田家臣>天正十年(1582)三月十一日、織田軍に追い詰められた武田勝頼と嫡子信勝は田野の地で自害します。これをもって、戦国大名甲斐武田氏は滅亡します。三月十九日織田信長は、河尻秀隆に河内地方を除く甲斐と信濃諏訪郡を与えます。秀隆は甲斐に入りますが、躑躅ヶ崎館には入らず岩窪の地に館を構えたと言われています。

六月二日の明方、本能寺の変が勃発。信長死去を知った甲斐国内は不穏な動き(一揆など)が発生し始めます。織田軍は執拗な武田遺臣狩りなどを行い、さらに多くの寺社仏閣を破壊しますので、そのことが甲斐国内の住人から反感を買ったのではないかと「天正壬午の乱」ではいいます。それを知った徳川家康は河尻秀隆に協力する旨の使者、本多百助信俊を甲斐に派遣します。が、秀隆は信俊を疑い(実際徳川氏は武田遺臣らと通じていたようです)六月十四日に殺害します。それに怒った信俊家臣は甲斐国内へ一揆などの働きかけを積極的に行ったといいます。

六月十八日、河尻秀隆の館は一揆に襲撃されます。秀隆は山県昌景同心であった三井弥一郎に討取られ、逆さにして埋められたといいます。織田家臣で唯一武田領国から逃げ遅れた織田家臣なのです。

 

さて、河尻塚なのですが、武田信玄公墓所近くの目立たない場所にあります。「悪逆塚」として甲斐国で忌み嫌われていたようなので、このような状態になってしまったのでしょうか。

石碑に「河尻肥後守」とあるのは、単純な間違いなのだそうです。正しくは「肥前守」です。この間違いだけでも織田家臣に対する甲斐国内の気持ちが伝わってきそうです。

河尻塚には信玄公墓所より、看板といいますか案内?がありますので、たどり着けると思います。くれぐれも周囲の民家にご迷惑をおかけしないようお願いします。そして、ここを訪れ甲斐国民の織田家への気持ち、感じてみてください・・・。

周辺の甲斐武田氏関係地:武田信玄公墓所円光院躑躅ヶ崎館など

参考文献:天正壬午の乱/平山優・武田氏年表-信虎信玄勝頼/武田氏研究会・甲斐国志など

<2012/9/10>