甲斐武田を探検っ!!

 

桂泉院 仁科五郎盛信位牌殿など

 

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仁科五郎盛信位牌殿

法名「蒼龍院殿成巌建功大居士」。

昭和四十六年(1971)盛信400年忌の際建てられたものです。このなかには、小山田備中守昌成(昌行とも)らの位牌も安置されています。小山田の法名はなかを少し覗いたのですが、恐らく「昌辰院義山篤勇居士」。彼の子は勝頼側近でしたが、父とともに高遠城救援のため城に入り、そこで討死しています。

 

長野県は伊那市高遠町「桂泉院」、山梨県内ではないのですが・・・・仁科盛信の関係するお寺だということで最高の天気のなか行ってきました!ここのお寺は駐車場はありますが、そこに行き着くまでの道がちょっと細くわかりづらいかもしれません。

盛信位牌殿はもちろん、織田軍侵攻の際に開善寺というお寺から没収し、陣鐘としてさらには高遠城落城のあと戦死した兵を供養するため打ち鳴らされたと伝わる梵鐘なども残されています。

仁科五郎盛信は、弘治三年(1557)武田信玄の五男として生まれます(母は油川氏)。信濃の名族仁科氏を継ぎ、四男で武田家を背負っていくことになった勝頼の期待を裏切らない活躍をみせ、かつ伊那の人たちからも慕われたそうです。天正十年(1582)織田信忠(信長嫡男)率いる織田軍の侵攻を受け、城代をつとめていた高遠城を包囲され降服勧告をうけますが、拒否。他の城では逃亡や降服が相次ぐ中、仁科盛信とその周囲の人間らは徹底抗戦、そして壮絶な討死を遂げます。

 

境内には最近建てられたと思われる案内板が建っていまして。「甲斐国主武田信虎公ノ墓」。このような場所にあるとは勉強不足のためまったく知りませんでしたので、感動!早速本堂裏の山へ。

天文十年(1541)信玄に追放され、駿河・京都などを拠点に活動していた信虎ですが、生国甲斐に帰るべく信濃に入国。当時高遠城代をつとめていた信虎の子信廉(逍遥軒)のもとに身を寄せます。しかし勝頼にその場に留め置かれ、甲斐入国を果たせぬまま天正二年(1574)3月5日、81歳で死去します。遺骸は高遠城内の法鐘院と甲斐の大泉寺に葬られたのだとか。その後、法鐘院は桂泉院と名前を変えてこの地に移ったのだそうです。

信虎墓の横に目をやるとちょっとした石碑がありました。何気なく読むと、そこには「内藤修理亮(大和守)昌月(まさあき)墓」もあると!!開山の石塔と並んであるとのことなので、多分下の写真です・・・

 

武田信虎墓

彼の葬式は甲斐府中の大泉寺で執り行われました。

桂泉院での法名は「法鐘院殿泰雲公康大居士」。

 

内藤修理亮昌月墓

保科正俊の次男。天正三年(1575)内藤昌秀の養子となり、長篠後は跡を継ぎ、引き続き西上野の統治を行ないます。

実兄は保科弾正左衛門尉正直。

 

ふらふらっといってしまったので・・・内容的にとても薄いモノになってしまいました・・・

さらに詳しく知りたい方、相互リンクさせていただいているHP「武田家の史跡探訪」にとても詳しく紹介されています、ゼヒご覧を!実はこちらのHP、「自分もHPつくりたいなぁ・・・」と思うきっかけになったんです。様々な史跡を紹介していますよっ!

 <2007/6/26>