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              勝山城跡(曽根勝山城)

 

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史跡・関係地名:勝山城跡(曽根勝山城、もしくは曽根の勝山城)

住所:山梨県甲府市上曽根町

場所のわかりやすさ:△

駐車場:△(東側の南北に走る道路脇など)

説明板:×

売店:×

地図:

  

関係人物:武田信虎油川信恵福島正成・服部半蔵など

<曽根勝山城>中央自動車道の甲府南インターチェンジの近く、笛吹川に架かる中道橋付近から東南の方向に目をやると、ぽっこり盛り上がっている小山があります。そこが油川氏の詰め城といわれる「勝山城」跡です。都留市にも「勝山城」があり、そちらの方は武田家滅亡後鳥居氏・秋元氏に利用されるなどして有名だと思います。同じ山梨県内にあるのでこちらは「曽根の勝山城」などと呼ばれます。なお油川氏の館は笛吹川を挟んで笛吹市石和町東油川にある泉龍寺付近だと言われています。

城跡ですが、防御が手薄そうな小山といいますかチョットした丘。しかし、この場所は当時笛吹川と釜無川が合流していたと伝わる場所近く。周辺は沼地であったようで容易に近づくことができなかったとか。現在は農地・宅地化していますが、甲府盆地内では水の溜まりやすい地域の一つで、「ハザードマップ」では水害危険地域になっています。また勝山城近くに中道往還(駿河への道)が通ることから、甲府盆地南からの入口として非常に重要な場所であったようです。

<油川氏の時代>曽根勝山城の主であったといわれる油川彦八郎信恵は、武田信虎の父信縄の弟(信昌嫡男信縄、次男油川信恵、三男岩手縄美・・・)で叔父にあたる人物。

信虎の祖父、武田信昌は長男信縄に家督を継がせようとはせずに(信縄が病弱であったからなどと言われます)、信縄の弟信恵を後継にしようとします。そこで信昌・信恵対信縄とで争いとなり甲斐は内乱状態(延徳四年/1492)となります。何度か武力衝突が発生していますが、伊勢氏(のちの北条氏)や今川氏らの甲斐国内侵攻などの理由により和睦。しかしすぐに衝突が再開、明応三年(1494)信昌・信縄陣営は大敗して多くの死傷者を出します。結果、父信昌を落合館に隠居させた信縄が家督を継ぎます。その後永正二年(1505)九月十六日信昌が死去、家督を継いだ信縄も続くように永正四年(1507)二月十四日病死。信縄の子武田信虎(当時は信直)が14歳で家督相続することとなります。信恵は大いに野心に燃えたようで、信虎に反旗を翻し岩手氏・栗原氏などを味方につけ戦います。しかし信恵は翌年十月四日信虎軍の奇襲により敗北し、弟岩手縄美・さらには信恵の子信貞とともに討死します。それにより一族は壊滅に近い状態になったようですが、一部は生きのびます。後年信玄側室になった「油川夫人」が油川の血をひいており、仁科盛信の生母となっています。

<曽根勝山城その後>永正十一年(1514)駿河の今川氏は信虎に反抗した大井氏に同調し、甲斐に侵攻します。その時、兵を駐屯させる際に曽根勝山城を使用します。さらに武田氏滅亡後、徳川家康が甲斐・信濃平定のため入国しますが、勝山城を再整備させ、服部半蔵などに防備させたようです。そのようなことから、現在残ってる遺構は徳川氏のモノではないかといわれます。

   

曽根勝山城跡に一切説明板はありませんし、特に公園などで整備されているわけではありません。果樹園と荒地があるのみです。調子に乗って車で上まで登ろうとするときっとはまるはずです、ご注意を。しかしながら、堀跡など若干ではありますが、遺構が確認できますので、現地にたって、思い巡らせて見てはいかがでしょう?

なお、城跡の畑に真新しい石碑が建ち「沼田めぐり 攻めるにがたし 勝山城」と刻まれています。

 

周辺の甲斐武田氏関係地:油川氏館跡・下曾根氏屋敷跡坊ヶ峰(勝負ヶ池)など

参考文献:武田信虎のすべて・甲州武田一族衰亡史他

 <2006/8/11 2010/2/23リニューアル>