甲斐武田を探検っ!!

 

鍵懸の関

 

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武田信之という人物をご存知でしょうか?西保三郎とも称します。彼は天文十二年(1543)、武田信玄と正室三条夫人(円光院殿)の間に三男として誕生し、実兄には武田義信信親、異母弟に武田勝頼仁科盛信などがいます。

彼が称した「西保」という場所は現山梨市牧丘町の山間にある地区名です。こちらには、信玄・勝頼期に雁坂方面の軍事上重要な間道として使用された、西保-赤芝-切差-太良峠-積翠寺-躑躅ヶ崎館とつながる秩父裏街道があります。その間道で重要な、かつ機密性の高い関所がここ山梨市牧丘町赤芝地区の鍵懸の関です。

 

国道140号から鼓川沿いの道を走ります。西保地区はそのまま通りすぎて進んでいきます。・・・最近だと思うのですが、赤芝地区近くまで新しい道が走るようになりました。その道端に鍵懸の関の看板を目にしますが、これは気にせずにとにかく赤芝地区を目指して行ったほうがよいと思います。旧道?に案内されて迂回して結局新道に合流という場所がありました。そして、しばらく進むと上左の写真のような看板があります。看板を見てから100mくらい進むでしょうか?右手に赤芝地区の集会所がありましたので、自分はそこに車を止め、歩いて数分で関所跡に。

 

関所は復元されたものですが、その礎石は当時のものが残されているようです。この奥が秩父奥街道の躑躅ヶ崎館方面。しばらくは完全に深い山の中に入っていく模様です。関所跡の少し奥に行くと、動物除けの柵が張り巡らされていました。

関所跡は赤芝川横にありますが、赤芝川はしばらく下ると鼓川と合流します。鼓川周辺には、源平合戦の時に源義経など平家と戦って多いに武名をあげた甲斐源氏安田遠江守義定、武田信昌(信虎祖父)などと甲斐の覇権を争った守護代跡部氏に関係する場所が多く見られます。

 

さて、最初に書いた武田信之ですが、天文二十二年(1553)に11歳で病のために死去してしまったと伝わります。信玄はいったいなぜ西保を三男信之に名乗らせたのでしょうか。雁坂口監視・防衛などを期待していたのでしょうか?答えはわかりませんが、この関所の重要性とあわせて考えてみるとイロイロ思いが膨らんでいきます。

興味深い話がひとつありました。武田信之は幼い頃、上総武田家からの願いにより信玄の命で養子に入り、上総武田家を継ぎます。しかし、後の豊臣秀吉の小田原北条征伐の際に豊臣方に敗れ自害したとの伝承。史料等などはなく、わかりません。ただ、甲斐武田氏は山梨県外にも多くの伝承が伝わっています。

 <2008/10/3>