甲斐武田を探検っ!!

       光明山常楽寺

 

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史跡・関係地名:臨済宗光明山常楽寺/穴山伊予守信永墓所

住所:山梨県笛吹市御坂町二之宮

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○(寺敷地内に)

説明板:○

売店:×

地図:

関係人物:穴山伊予守信永・穴山友勝など

<常楽寺と小山城と穴山伊予守信永>美和神社近くの臨済宗光明山常楽寺。穴山信永墓所があります。・・・が、伊予守信永とは?と思われる方が多いはず。穴山信君(梅雪)や、その父信友は名が知れているのですが。

「穴山武田氏/平山優」によると、穴山伊予守信永は甲斐河内(かわうち)地方に拠点を置いた穴山氏の分家と考えられています。信友-信君と続く家系が本家ですね。

ところで、かつて小山城主でありその周辺を治めていたのは穴山伊豆守という人物。伊豆守は穴山満春(武田信元と同一人物といわれます)の子で穴山宗家を継ぐはずでしたが、素行不良ということで宗家は武田家からの養子が継ぎ、伊豆守は小山城周辺の地を治めることとなります。そのことで伊豆守は武田家に恨みを持ち、宝徳二年(1450)甲斐守護武田信重を急襲し小石和館で自害に追い込んだのではないか?といわれます。信重殺害後伊豆守はまったく史料から姿を消してしまいますので、恐らくすぐさま討伐され、しばらくして穴山宗家が所持していた小山周辺を伊予守が与えられたと考えられるようです。

話を戻し、穴山伊予守信永は穴山信介の孫・信懸の子といわれます。河内の穴山宗家は信永兄弟(恐らく兄)の甲斐守(信風・信綱とも/信君祖父)が継ぎ、分家として信永は小山城周辺を領しますが、大永三年(1523)花鳥山、さらに小山城で長年敵対関係にある南部氏の南部某に敗れ、この地に落ち常楽寺で自害します。その際信永とともに一族郎党も自害したようで、常楽寺にはそれらお墓がまとまってあります。ちなみに一番大きいものが信永のものです。法名は「東膳院殿玉山鉄公代居士」。

なお、天正八年(1580)穴山信君は「穴山宗九郎」という人物の墓所を身延町広禅院に移しています。その「宗九郎」は伊予守信永であるということが、現在有力な説となっています。

 

二之宮地区に伝わる話によると、この穴山信永と一族郎党の石塔の石を粉にしてなめると風邪にきくといわれ、多くの人が石塔を削ったのだとか。まとめられている石塔の中には一部大きく変形してしまっているものがあります。

<信永の遺児?>信永には友勝という遺児がいたという話が伝わります(甲斐百話)。18歳で亡くなっており正因寺が菩提寺と伝わりますが、御坂百話によると彼の子は花曲氏を名乗り子孫は徳川忠長(花曲信富)・柳沢吉保(花曲仙左衛門信名)に仕えます。後に君命により穴山氏に改め、笛吹市御坂町八千蔵地区に住し現在に至っているとのことです。

  

<桃源郷>さて常楽寺ですが、かつては「一に花鳥、二に小山、三につらいは常楽寺」と唄われたのだとか。真新しい案内板(2006年に設置)が設置されており、訪れた嬉しさを倍増させます。周辺は日本屈指の桃の産地、春先には桃の花が咲き乱れ、桃源郷となります。墓所の奥手も桃畑。桃の花満開の4月上〜中旬にどうぞ!!

  

周辺の甲斐武田氏関係地:小山城跡美和神社など

参考文献:新編武田信玄のすべて・穴山武田氏/平山優・甲斐百話/弦間耕一・ふるさと誌/御坂町教育委員会・二之宮の民俗/山梨県史民俗調査報告書他

<2006/8/11 2011/2/22リニューアル 2011/4/9更新>