甲斐武田を探検っ!!

 

慈雲院 石原豊後守墓所

 

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三枝土佐守虎吉の菩提寺である三星院の末寺、慈運院です。旧豊富村内を流れる浅利川沿いをグングンのぼっていくと左手に見えます。赤い屋根を目印にすると行きやすいはずです。

説明版などはまったくありませんが、本堂から左に目を移し、壁沿いに墓所があります。豊富村誌によると、石祠があり、その胎内には石原豊後守夫妻の法号が記された石仏があるんだそうです。が、専門家でもないですし、少し見た感じでは字が風化しているので・・・この辺が怪しいかな?というのが、右の写真です。

天正十四年(1586)に亡くなった石原豊後守守綱(自雲院殿関山全忠居士)と天正五年(1577)に亡くなったその妻(丘頂院有水崇月大姉)の墓所だと伝わるそうです。ただし、少し疑問。甲斐国誌では石原守綱は豊後守でなく「丹波守」。石原丹波守守綱は信虎の命により、三枝氏(のちに三枝勘解由左衛門尉昌貞が活躍しますね)を継いだ人物です。ですので、石原家の墓として残っているのはなぜ?

守綱の兄は主水守繁、父の後をうけ、石原氏を継いでいます。そして、その子が「豊後守」守玄(もりはる)なんだそうです。ですので、守綱をとるのならば「石原丹波守守綱」、豊後守をとるなら「石原豊後守守玄」である、そのような形で豊富村誌は謎を問いかけたままになっています(笑)。ちなみに豊後守守玄の子が四郎右衛門昌明、徳川統治期に甲斐四奉行の一人に数えられた人物です。

実際にはどうなのでしょうか?三枝虎吉は永正十年(1513)生まれだと言われていたりします。少なくともその頃の生まれでしょうから父の守綱は1400年代の生まれでしょうね。そうなるとこの時代ですと天正十四年(1586)まで長生きするとは考えにくいですし。先ほども少し話に出ましたが三枝氏を継いだ守綱がなぜワザワザ石原氏に?ということもあります。ここは「守玄」説が有利か、と。ですので、このページの題名も「石原豊後守墓所」としてしまいました。

・・・・そんな感じで、ちょっと専門家ぶってイロイロ考えてみるとかなり楽しいですね!

 <2006/1/28>