甲斐武田を探検っ!!

       有富山慈照寺

 

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史跡・関係地名:有富山慈照寺(ゆうふざんじしょうじ) 諸角豊後守昌清供養塔など

住所:山梨県甲斐市竜王

場所のわかりやすさ:○

駐車場:○

説明板:○

売店:×

地図:

関係人物:諸角豊後守昌清・今井信甫・三枝吉親など

<慈照寺の文化財>赤坂台地の南斜面にある慈照寺。武田家滅亡時、甲斐国内に入った織田軍は寺社を多く焼き討ちしてしまいますが、こちらは免れています。台地の山陰に隠れ、織田軍に気づかれなかったと伝えるものもあります。

さて慈照寺は古くは真言宗でしたが、延徳元年(1489)真翁相見禅師により曹洞宗に改められ開創されました。さらには建造物にも山門・法堂(本堂)など文化財が多くあります。

 

左上の写真は山梨県指定文化財の山門です。江戸時代の寛永十六年(1639)作ですが、桃山期の様式がよく現れている山梨県内で貴重な建築物です。この山門の中には木造釈迦如来坐像と五百羅漢像が安置されており、こちらはともに甲斐市指定文化財。釈迦如来像は室町時代、五百羅漢像は寛文三年(1663)の造立です。さらに右上の写真は本堂(法堂)で、こちらも山梨県指定文化財。桃山期のモノと考えられています。下の写真の梵鐘も甲斐市の文化財に指定されています。

慈照寺は武田家と縁の深いお寺で、武田信虎書状・武田晴信禁制・武田勝頼寺領安堵状さらには徳川氏関係文書・浅野氏関係文書などが保存されています。また、永正十二年(1515)に武田信虎による大井信達攻めで戦死した今井信房の遺志に従い、弟の今井信甫が上曽根の地を慈照寺に寄進している文書は、保存されている文書のなかでも有名なものの一つです。こちらで紹介している今井氏は府中を拠点としており、武田氏研究40号「府中今井氏の消長/秋山敬」によると、信虎・信玄前期に武田家中で大きな力を持っていたと考えられています。

 

<諸角昌清?室角虎光?>慈照寺開基である諸角(もろずみ)豊後守昌清(両角豊後守虎定・室住豊後守虎光・室住虎定とも)の供養塔は法堂裏の墓地にありますが、昭和六十年に建てられたモノなのでまだまだ真新しいものです。法名は「慈照寺殿賢昌良清大禅定門」、高野山成慶院では「忠宗良香禅門」と残されています。彼は、信虎・信玄時代の有力武将として活躍し(信虎祖父信昌の六男と伝えるモノもありますが、確かなものではありません)、永禄四年(1561)九月老体にムチをうち川中島合戦に参戦します。甲陽軍鑑によると、信玄弟武田信繁の討死をうけ自らも討死を決意、上杉軍新発田隊と戦い81歳で討死。彼の首は新発田隊に奪われてしまいますが、それを奪い返したのは、諸角の同心衆石黒五郎兵衛と当時三河浪人のちの徳川家奉行成瀬吉右衛門正一と伝わります。

彼の名前、今回は供養塔にある「諸角昌清」を使用しましたが、「両角」「室住」さらには「虎定」「虎光」など様々に呼称されています。現在では自筆文書があり、そこに室住豊後守虎光と署名されているとのこと(新編武田信玄のすべて/新人物往来社)です。

  

<三枝家の墓所>墓地内には三枝家の墓所もあります。三枝氏で著名な人物は山県昌景に気にいられ、「山県」の姓を許され二十四将にも数えられる三枝昌貞(守友)。その弟、三枝監物吉親の家系の墓所です。一般墓所なので、細かくは自粛しますが三枝氏は多くの御子孫の方が現在まで残られているようですね。なお、昌貞弟(吉親の兄)昌吉の墓所は北杜市の信光寺にあります。

「竜王」の地名の由来となった湧水(竜王水)です。甲斐市指定天然記念物です。開山真翁宗見禅師にまつわる伝説が残されています。古くからこの地域の重要な水源として利用されていた湧水です。

周辺の甲斐武田氏関係地:信玄堤三社神社など

参考文献:甲斐国社記寺記・武田氏年表信虎信玄勝頼/武田氏研究会・武田氏研究40号・甲斐百八霊場HPなど

<2006/8/11 2010/5/23リニューアル>