甲斐武田を探検っ!!

       横手氏屋敷跡

 

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史跡・関係地名:横手氏屋敷跡

住所:山梨県北杜市白州町横手

場所のわかりやすさ:×

駐車場:×

説明板:×

売店:×

地図:

 

関係人物:横手監物満俊・横手信俊(後の柳沢信俊)など

 

<屋敷跡とはいうものの・・・>国道20号牧原交差点を甲府からですと左折、横手地区に。すると安福寺の案内が出ますので、そこを案内通り右に。しばらく車を走らせると右手に「横手氏屋敷跡」の案内が現れます。この旧白州町の案内が建っている場所ですが恐らく民有地だと思います。敷地内に家屋があり、なんとなく生活臭がします。しかも入口にはチェーンがしてあり入れないようになっていました。しかしながらこちらの敷地前には堀跡とも思える、今でいう側溝でしょうか?が残されていますね。

甲斐国志には「御殿原 芝地東西七町南北十六町許リ又殿屋敷・故御所・馬場ト云アリ皆故事ヲ伝ヘズ横手氏の居趾ナルベシ」とあります。日本城郭全集の言葉を借りると、「東西700m南北1600mほどの平地にあったものと考えられている」ということでしょうか。ですので、一応旧白州町の案内は建ってはいますが、確実な場所ではないのでしょうか?

 

<武川衆の横手氏>史料に登場する横手氏ですが、横手監物宛の永禄十年(1567)三月十五日の信玄判物(軍役申付)と、同年八月七日、生島足島神社連署起請文に「六河衆(武川衆)」の一員として残っています。起請文の宛名は六郎次郎殿、後の武田信豊です。連署には馬場小太郎信盈・青木右兵衛尉信秀・山寺源三昌吉・宮脇清三種友・横手監物満俊・青木兵部少輔重満・柳沢壱岐守信勝(信房とも)の七名の名があります。永禄十年における武川衆の棟梁達なのでしょうね。なお生島足島神社起請文ですが、永禄八年(1565)信玄息子の義信謀反未遂をうけて提出されたと考えられています。武田家臣団の結束を図るために起請文を提出させ、さらに宛を信玄ではなく重臣などにしたことで互いに監視させようとしたようです。

横手氏は、柳沢氏などと同様に青木氏からの分出(山寺氏・折井氏とともに、もとをたどれば青木氏)。さらに地理的に近いこともあり柳沢氏とは深い関係にあったようです。青木信時弟の横手満俊(信国とも)は元亀元年(1570)駿河花沢城攻めで討死、信国弟の信俊は横手氏の名跡を継ぎます。後に柳沢信兼が天正八年(1580)軍令違反で切腹し、嫡子信久も駿河清見寺に逃れると勝頼の命で柳沢氏の名跡も継ぎ、柳沢信俊と名乗るようになります。その柳澤氏から後に柳澤吉保が出てきたことはみなさん、ご存知の通り。

周辺の甲斐武田氏関係地:柳澤氏屋敷跡柳澤寺跡中山砦など

参考文献:甲斐国志・日本城郭全集(第5)静岡山梨長野編・戦国遺文(武田氏編第2巻)など

<2010/11/18>