甲斐武田を探検っ!!

       白龍山徳泉寺

 

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史跡・関係地名:曹洞宗白龍山徳泉寺 日向大和守兼繁供養塔

住所:山梨県北杜市須玉町比志

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○

説明板:×

売店:×

地図:

関係人物:日向大和守兼繁など

<徳泉寺>武田信玄が開発したとも伝わる、増富温泉につながる増富ラジウムライン沿いにある徳泉寺。須玉町誌によると甲斐源氏の祖と言われる新羅三郎義光(1045-1127)が祈願所と定めたことからお寺の歴史がはじまったと言われています。その後、天文五年(1536)武田信玄(当時は晴信)の命で日向大和守兼繁が修復、その際真言宗から曹洞宗に改宗したと伝わります。

<日向大和守兼繁と日向氏>日向氏というと武田信虎の代から活躍し、板垣・荻原・飯富・原・室住・小宮山と並ぶ侍大将であったといわれている大和守是吉が有名でしょうか?是吉は武田氏研究25号などによると、戸石崩れで討死と考えられています。彼の跡を継いだ(嫡男と考えられています)大和守虎頭も武田氏の信任厚く、天正十年(1582)の織田軍侵攻時には信濃の大島城に在番(副将であったとも)。大将である武田逍遥軒信綱が逃亡したため、城とともに討死しようと考えますが、老齢のため虎頭家臣により、偽り城外に出され所領村山に連れ戻されます。その後、所領にて自害したと伝わります。虎頭の子藤九郎昌成は上州攻めに鉄砲を用い活躍しますが、倉賀野にて討死しています。他にも是吉の養子となった日向玄東斎宗立は朝倉氏・比叡山への外交時に活躍。宗立の子政成は武田信勝小姓衆。新編武田信玄のすべてによると、是吉は1550年、虎頭は1582年、昌成は1564年、宗立は1608年、政成は1643年に死去したと考えられています。

 

  

大和守兼繁という人物ですが、墓碑・寺記によると元亀元年(1570)八月に死去と伝わっています。死因はなんでしょうか?病死?それとも何かの戦いのなかで討死でしょうか?因みに元亀元年、甲斐武田氏は駿河東部・伊豆を攻略中です。武田氏年表によると八月上旬には興国寺城を、同五日には山県昌景・武田勝頼が伊豆韮山城を攻めますが、反撃にあい撤退しています。

兼繁と日向是吉らとのつながりは確認できていません。同じ日向姓・大和守・地域的にもこのあたりは日向氏の所領と、なんらかはつながりがあったのでしょうか。徳泉寺に伝わる大和守兼繁の法名は「徳泉寺殿華屋宗栄大居士」となっています。

 

<比志と武田氏>徳泉寺の隣の山は「比志の城山」と呼ばれ、かつて狼煙台があったところ。信濃から信州峠を経由し狼煙台が設置されており、躑躅ヶ崎館まで迅速に情報が伝わるよう整備されていました。山頂付近には遺構が残されているのだとか。

周辺の甲斐武田氏関係地:比志神社獅子吼城跡など

参考文献:武田氏年表-信虎・信玄・勝頼/武田氏研究会新編 武田信玄のすべて/柴辻俊六・武田氏研究第25号など

<2010/8/10>