甲斐武田を探検っ!!

       金剛福聚山法泉寺 武田四郎勝頼墓所

 

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史跡・関係地名:金剛福聚山法泉寺・武田勝頼墓所・武田信武墓所など

住所:山梨県甲府市和田町

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○(20台程度?)

説明板:○

売店:×

地図:

関係人物:武田信武・武田勝頼・快岳和尚など

<法泉寺と武田家>臨済宗妙心寺派金剛福聚山法泉寺(こんごうふくじゅさんほうせんじ)。寺記によると開山は夢窓国師、開基は甲斐武田家七代当主信武(1303頃?〜1539)。元徳二年(1330)に武田信武が夢窓国師の高弟、月舟禅師を招き開いたお寺です。月舟禅師が本来なら開山なのですが、自らは二世とし、恩師の夢窓国師を開山としました。

時がたち、信玄が甲斐を治める時代になる頃には寺運は衰えていたようですが、甲斐武田家中興の祖「信武」が開いた寺院ということで信玄は厚く保護、さらに信玄が制定した甲府五山のひとつとなり(残りの四山は、長禅寺東光寺円光院能成寺)寺運は盛んになりました。

現在でも多くの歴史的に貴重なモノが残され、文化財に指定されています。たとえば鐘楼門は江戸初期のものだそうで、甲府市の文化財に指定されています。さらにこちらのお寺が所蔵している文政十三年(1830)に描かれた勝頼画像は様々な資料などに引用されておりとても有名です。

  

<勝頼と快岳禅師>勝頼の代になっても、法泉寺は引き続き厚い保護を受けますが、天正十年(1582)三月勝頼と嫡男信勝は自刃。彼らの首は織田信長の命により京の六条河原にさらされます。この時、妙心寺の南化和尚がその首をもらい受けて、妙心寺の開山堂のかたわらに葬りますが、法泉寺の快岳禅師もそこに居合わせ勝頼の歯髪を持ち帰って、織田信長死去後に法泉寺に葬ります。

本能寺の変後は徳川家が甲斐を治めるようになりますが、家康は甲斐の内情に精通した快岳禅師を重用。武川衆を徳川家に取り込むなど功績をあげ、武田勝頼を法泉寺の中興開基とし、菩提寺とするよう命じられます。これから後、法泉寺は武田勝頼菩提寺として地位を保証されます。

<武田勝頼墓所>お寺の本堂左手に武田勝頼の墓所があります。快岳禅師は勝頼を葬る際、目印に山桜を植えたそうです。その山桜、この周辺では見られない種類であり、奈良の吉野山と同じ種類なんだとか。法泉寺に伝わる勝頼法名は「法泉寺殿泰山安公大居士」です。なお、墓所の左手前には昭和五十九年に建てられた真新しい「勝頼軍団戦没将士供養塔」が建っています。

  

<武田信武墓所>安芸守護。建武二年(1335)足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した際、信武もそれに応じて安芸で挙兵し、以来尊氏の忠実な武将として働きます。やがてそれらの功績が認められ甲斐の守護を兼ねることとなり、甲斐武田氏中興の祖と言われるようになりました。法泉寺に伝わる信武法名は「清浄院殿雪山照公大禅定門」です。

 

周辺の甲斐武田氏関係地:攀桂寺武田氏館跡など

参考文献:甲斐国社記寺記・武田氏年表-信虎信玄勝頼/武田氏研究会・法泉寺HP/甲斐百八霊場HPなど

<2006/8/11 2010/6/16リニューアル>