甲斐武田を探検っ!!

       徳昌山報恩寺

 

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史跡・関係地名:曹洞宗徳昌山報恩寺/落合惣兵衛尉墓所

住所:山梨県甲府市落合町

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○

説明板:×

売店:×

地図:

 

関係人物:落合惣兵衛尉など

<報恩寺と落合氏>小瀬スポーツ公園の南西、落合町にある報恩寺です。寺記によると、曹洞宗徳昌山報恩寺は元亀元年(1570)に落合惣兵衛尉により建立されたと伝わります。本尊は薬師如来。落合氏は甲斐源氏の流れをくんでいるといわれています。この地を支配した甲斐源氏が落合氏と呼ばれるようになったのだとか。報恩寺建立時、この地は落合氏により治められていたといいます。

現在は甲府盆地西部を流れる釜無川ですが、かつては盆地中央部側に流路をとり、この落合町あたりで笛吹川と合流していました。落合という地名も「大きな川が落ち合うというところから来ている・・・」とも言われます。釜無川が流路を徐々に西へ変えるのは信玄などによって河川改修が行われるようになった永禄年間ころからだと思われています。しかしながら、元々土地は低い場所ですので、改修以降も水害は多かったはずです。それでもこうやって墓所が残っていたりするだから、妙に感動ですよね。

 

 

<落合惣兵衛尉>その落合氏で名が知られているのは、落合惣兵衛尉。天正壬午甲信諸士起請文によると、落合惣兵衛は原隼人衆に属していたとあります。原隼人には山県昌景などとともに活躍し、後に武田二十四将の一人として数えられ、天正三年(1575)長篠で戦死した昌胤、昌胤の跡を継ぎ天正八年(1580)上野国で戦死した昌栄、昌栄の跡を継いだ昌胤三男貞胤がいます。その原氏の下で活躍していた落合惣兵衛です。武田家滅亡後になると、徳川家康からは四拾貫六百三十文の旧領を安堵されています。

「郷土山城」という書籍によると、落合家系図では重次という人物がおり、彼が惣兵衛尉を称し、久右衛門とも名乗り、後に宗兵衛と名乗ったと伝えています。

また、かつては竜王で御勅使川と合流した釜無川が、大きく盆地側に流路を変えこのあたりで笛吹川と合流していた地域です。ですので昔から水害多かったはずです。それでもこうやって残っていたりするだから、妙に感動です。

<落合惣兵衛墓所>落合惣兵衛尉墓所は本堂裏にあります。法名は鉄箒清心居士で、天正十二年(1584)十二月八日に死去したと寺記は伝えます。現在の墓所ですが、後世に子孫などにより建てられたものです。

  

 

周辺の甲斐武田氏関係地:小瀬氏屋敷跡・小曲氏屋敷跡など

参考文献など:甲斐国志・郷土山城/甲府市立山城小学校同窓会など

<2006/8/16 2011/10/24リニューアル>