甲斐武田を探検っ!!

       長国山聖応寺

 

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史跡・関係地名:臨済宗向岳寺派長国山聖応寺

住所:山梨県笛吹市境川町大黒坂

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○

説明板:○

売店:×

地図:

関係人物:武田信満・黒坂氏など

まず最初に、地図の写真がとても広域になってしまっています。申し訳ありませんがご了承ください。

<向岳寺派のニ大寺>長国山聖応寺(しょうおうじ)。康暦元年(1379)小黒坂に創立されますが後に現在地に移転。向岳寺派寺院で現笛吹市八代町にある広済寺とともに二大寺として大いに栄えたのだとか。こちらには笛吹市指定文化財「聖応寺文書」が六通残されています。内訳は応永二年(1395)黒坂五郎信光の寺領寄進状・永禄三年(1560)武田晴信判物・天正四年(1576)武田勝頼判物・天正十年(1582)織田信忠禁制・天正拾八年(1590)伊奈忠次証文・慶長八年(1603)徳川家康奉行連署起請文となっています。

 

 

<黒坂五郎信光>さて上記の応永二年黒坂信光寄進状ですが、これは信光が黒坂郷を聖応寺に寄進するものでその際、聖応寺を小黒坂から現在地に移転したと伝わります。寄進状の人物「黒坂信光」、現在では武田信満と考えられています。他にも「光」を使った文書が残されていることが有力な根拠ということです。武田信満は、応永二十年(1413)父信春の死去により甲斐武田家を継いだ人物。彼は上杉禅秀の乱に加担し、幕府軍に攻められ応永二十四年(1417)木賊山で自害しており、その後甲斐は大きく乱れていくこととなります。それ以前の寄進状ですので、家督を継ぐ前に信満は「黒坂氏」を称していたことがあるということになりますね。黒坂氏は、源頼朝に信頼され甲斐守護となった武田(石和)五郎信光(1162-1248)の長男朝信が名乗り、当時の武田館(石和)の南方を護ったといわれます。のちの武田信満は、その名跡を一時期継いだと思われる・・・と、御坂町誌では紹介しています。

 

<武田信重と黒坂太郎>武田信満の子信重は、父の自害時高野山に逃れますが、幕府の思惑により応永三十年(1423)甲斐守護となり永享十年(1438)甲斐に帰国、小石和に居を構えます。その後自らの子を甲斐国内に配置し、支配体制を固めようとしますが、小山城の穴山伊豆守の急襲を受け、館近くで自害したと伝わります。

ナゼ甲斐守護である信重が攻められて、あっさり自害してしまったか・・・。理由に信重は国人の一人「黒坂太郎」を討伐する準備をしているときに穴山伊豆守に攻められた、と甲斐国志は伝えます。「穴山武田氏/平山優」では、反武田勢力の国人として近隣勢力でもある黒坂太郎と穴山伊豆守が繋がっていた可能性を示唆しています。

しかしながら、「黒坂太郎」と言う人物。他の史料では実在を確認することができないようです。ですので、どのような人物かはまったく不明。ただし、黒坂氏を称していることから、武田一族かそれに近い人物なのでは?と考えられています。

周辺の甲斐武田氏関係地:光照寺・龍安寺など

参考文献:境川村誌・甲斐国志・武田信重/磯貝正義・穴山武田氏/平山優など

<2011/3/7>