甲斐武田を探検っ!!

       吉原又兵衛墓所

 

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史跡・関係地名:吉原又兵衛墓所・伝正住寺跡・石造地蔵菩薩坐像

住所:山梨県笛吹市一宮町北都塚

場所のわかりやすさ:△

駐車場:×

説明板:△

売店:×

地図:

関係人物:吉原又兵衛

<吉原又兵衛>通常の書籍などではほとんどといいますか、全く無名な人物「吉原又兵衛」。当初は自分もあまり気にとめていなかったのですが、調べ始めると興味をひく逸話が出てきました。

甲斐国志によると、吉原又兵衛は遠江(現静岡県西部)高天神城主小笠原家に仕えています。当初は今川家の所領でしたが、その今川家が滅亡したことで、小笠原家は徳川家に属します。その徳川家は織田家の同盟国であることは周知の通り。元亀元年(1570)姉川合戦にも小笠原軍は徳川軍の先手となり参陣します。徳川軍は勇猛果敢に戦っていますが、その中にいた小笠原家旗下吉原又兵衛含む七名(渡辺金大夫・吉原又兵衛・林平六・伏木宮内・中山是非之助・伊達与兵衛・門奈左近右衛門)は特に軍功をたて織田信長より感状を賜ったと伝わっています。

天正二年(1574)武田勝頼は小笠原信興の高天神城を落としますが、天正三年(1575)長篠の戦いでの大敗後、又兵衛は勝頼本陣に招かれ旗本として足軽大将となっています。かつて高天神城で共に戦った仲間も同様に足軽大将となっており渡辺・吉原・林ら五名(残り三名は多分伏木・中山・・・すみません調べ切れませんでした)で、こちらは高天神五人などと呼ばれています。もちろん武田家に仕えている時も活躍しており「甲陽軍艦」によると天正八年(1580)上野(現群馬県)膳の城攻めで敵の剛の者を生捕ったと記されています。

また甲斐国志には「兵家茶話ニ今川家ニ吉原又兵衛、織田家ニ中野又兵衛、武田家ニ小幡又兵衛ト云々」とあり吉原又兵衛が武名高い人物として紹介されています。

 

<正住寺と地蔵菩薩坐像>さて、そのような吉原又兵衛の墓所ですが、天正年間吉原又兵衛の領地であった正住寺跡にあるようです(石和筋能呂ニ墓所アリ、廃寺跡ニ墓アリ/甲斐国志)が、行ってみたところ古めの墓石はあるのですがチョットわかりませんでした。現在その場所には地蔵堂がありお堂内には県指定文化財鎌倉末期のものの「石造地蔵菩薩坐像」があります。そのお堂横の木の根元にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)は康安二季(1362)と刻まれています。

 

 

<おきまりの・・・>お堂の屋根にはどういう関係かわかりませんが、武田菱・・・。

しかし、普段あまり紹介などされていない場所・人物も調べてみるとよい刺激になります。そんなことを再認識しました!

周辺の甲斐武田氏関係地:正宗寺徳本寺など

参考文献:甲陽軍艦・甲斐国志など

<2011/2/6>