甲斐武田を探検っ!!

       六角山成就院

 

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史跡・関係地名:浄土宗六角山成就院(じょうじゅいん)/武田信重館跡・墓所など

住所:山梨県笛吹市石和町小石和

場所のわかりやすさ:○

駐車場:△(JAかセブンでしょうか・・・)

説明板:○

売店:×

地図:

 

関係人物:武田信重・武田信玄など

 

<武田信満・信元・信重>関東管領上杉氏憲(出家後禅秀)と関東公方足利持氏との争いに加担、上杉禅秀に味方した甲斐守護武田信満は、幕府軍に攻められ応永二十四年(1417)天目山にて自害します。信満死後甲斐国内は甲斐源氏である逸見氏一族が関東公方の後押しもあり実権を握りますが、それをヨシとしない幕府は高野山に逃れていた信満の弟信元を甲斐守護に任命します。そのため甲斐国内は争乱で不安定な土地となります(その時期、信満の子信重も高野山に逃れています)。信元はなかなか帰国できませんでしたが、信濃守護小笠原氏の後押しで無事帰国し、その際守護代に信濃の跡部氏を任命したことが、後の争乱の火種に練っていきます。

永享十年(1438)にようやく甲斐に帰国した信重は信元の死後守護職に任ぜられ、成就院(かつて清光院というお寺があったようです)を館とし周囲に土塁などを構えます。信重は、守護職を争った逸見氏を滅ぼすなど功績をあげますが、宝徳四年(1450)十一月小山城の穴山伊豆守に攻められ、現在の成就院よりやや北側であえなく自害をしたと言われています。

武田信重の館跡は、後に子信守により六角山成就院(当時は臨済宗)が建立され父信重の菩提寺となりますが、後年周辺地域の開発と近くを流れる笛吹川の度重なる氾濫などにより、遺構は全く残っていません。小字に名残がある程度となっています。

現在、成就院本堂西側には武田信重の墓所があり、笛吹市の指定文化財に指定されています。信重辞世の句も残されています「もののふの信は重し名にのこる 甲斐の武田に一よといはん」。彼の法名は「成就院殿功岳道成大居士」と伝わっています。 

<武田信玄と成就院、そして円光院>永禄三年(1560)成就院は武田信玄の命により岩窪の地に移されます。説三(せつさん)を開山としますが、信玄の正室三条氏が説三に深く帰依。元亀元年(1570)に死去した三条氏の法名円光院殿をうけ、臨済宗妙心寺派瑞岩山円光院と改め三条氏の菩提寺とします。なお、武田信玄は京都や鎌倉にならい甲斐国内の名刹などを甲斐府中に移すなどして甲府五山(長禅寺東光寺円光院法泉寺能成寺)を制定しています。成就院が岩窪に移ったことで元々成就院があった小石和の地は荒廃してしまいますが、慶長年間に浄土宗に改宗して復興されています。

 

みん一族、成就院と繋がりがあるのだと祖父から教えてもらっています。みん一族菩提寺は別のお寺しかも日蓮宗。なぜか気になりますよね、自分のルーツに関係するのかも知れないですし。いづれ調べてみたいと思っています。

周辺の甲斐武田氏関係地:蓮朝寺小山城跡など

参考文献:武田信重 (中世武士選書)/磯貝正義新編 武田信玄のすべて/柴辻俊六・富士見村誌など

<2010/10/23>