甲斐武田を探検っ!!

       瑞光山長昌寺

 

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史跡・関係地名:臨済宗瑞光山長昌寺

住所:山梨県笛吹市一宮町末木

場所のわかりやすさ:○

駐車場:○

説明板:×

売店:×

地図:

関係人物:雨宮家次・雨宮家国・雨宮昌茂など

<雨宮氏と長昌寺>臨済宗妙心寺派瑞光山長昌寺(ちょうしょうじ)、建立された年代は不明ですが中興開山の仏徳大通禅師は応永年中(1394-1428)に没しているとのことなので、かなりの歴史を持つお寺になります。しかしながら武田家滅亡に際し、甲斐国内の多くの寺院と同様に織田軍により焼失しています。

長昌寺には笛吹市指定文化財「長昌寺大般若経」というものがあります。長い年月のなかで修復・補写が繰り返されており、古くは長元五年(1032)のものがあります。その中で、明応五〜六年(1496-1497)の般若経は雨宮摂津守家国が大檀那となり一族の繁栄を祈願して納めたものだと伝わります。家国は明応九年(1500)八月十六日死去、法名は乾徳院覚林本公居士(寺記)と伝わります。雨宮氏はもとは信濃(現長野県)の村上氏の支族で、村上氏に仕えていました。しかし故あって、家国ら一族の多くが甲斐に移住、武田信虎に仕えたといわれます。その長昌寺境内には、雨宮家の墓所があります。由緒などもチョット見にくくなっていますが確認できます。

 

<雨宮家次>さて、雨宮家国の子孫(孫?曾孫?ともいわれますが、系図が多く存在しハッキリしません)に、雨宮十兵衛家次という人物がいました。彼は信玄後継とされていた嫡男義信に仕えます。武田太郎義信衆ですから、何かしら信玄より信頼され任命された人物であったのでしょうか。しかし家次は永禄八年(1565)の義信謀反未遂、いわゆる義信事件に連座、武田家から追放され相模の北条家に仕えることになります。その北条家では武功を重ね、7通もの感状をもらいます。それを耳にした春日虎綱は信玄を説得、追放から3年後に武田家に再び仕えることとなります。その後、天正三年(1575)家次は春日虎綱の嫡男、春日源五郎(昌澄とも/昌澄の名は確証はないようです)組衆として長篠城包囲戦に参加。そのまま多くの武田家家臣とともに、帰らぬ人となったと伝わります。

  

<雨宮昌茂>家次には昌茂という子がいました。彼は武田遺臣が徳川家に忠誠を誓った、天正壬午甲信諸士起請文に「信玄公近習衆 雨宮十兵衛」としてみえ、のちに徳川家旗本となっています。寛政系譜によると、彼は慶長八年(1603)に死去しています。昌茂のように徳川家に仕えたものもおり、武田勝頼に従い田野で殉死した雨宮一族もいました。織田・徳川軍の甲斐侵攻でかなりの混乱があったのでしょうね。

<桃源郷>春先には周囲の桃畑がピンクに染まり観光客でにぎわいます。国道20号(勝沼バイパス)を通りぬけるだけでもその雰囲気は感じ取れるはず。三月下旬から四月上旬が見ごろとなるでしょうか?山梨生まれの私にとってはそれほど珍しい風景ではないのですが、「春」を多いに感じることのできる風景です。

ちなみに雨宮氏、現在でも笛吹市などでは多い名字のひとつ。「あまみや」「あめみや」など読み方は多くあるようですが、地元では「あめみや」と呼ぶことが多いようです。

周辺の甲斐武田氏関係地:慈眼寺・甲斐国分寺跡・一宮浅間神社など

参考文献:山梨県史・甲斐国社記寺記・甲陽重家録・武田家遺臣の研究/早川春仁など

資料など提供下さった早川様、ありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。(2010/7/15)

また、きち様より情報をいただきました。東京都豊島区の本妙寺には雨宮家次・昌茂・政勝をはじめとする雨宮家墓所があるのだそうです。きち様ありがとうございます!(2010/12/25)

<2009/7/1 2010/7/15リニューアル>