甲斐武田を探検っ!!

       乾徳山恵林寺

 

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本堂内・信玄墓所・家臣団墓所などの有料ゾーンの紹介はこちらへどうぞ。

史跡・関係地名:臨済宗妙心寺派乾徳山恵林寺・武田信玄菩提寺

住所:山梨県甲州市小屋敷

場所のわかりやすさ:◎

駐車場:◎

説明板:◎

売店:◎

地図:

  

関係人物:武田信玄・快川紹喜・武田信虎・秋山虎繁など

<乾徳山恵林寺>臨済宗妙心寺派乾徳山恵林寺(けんとくさんえりんじ)、元徳二年(1330)鎌倉幕府の要人でこの地を領していた二階堂道蘊(どううん)が夢窓国師を招き開山、邸宅を禅院に改めたのが始まりです。国師が造ったとされる庭園が今も残っており、現在国指定名勝となっています。以後恵林寺は甲斐国内における臨済宗の中心となり、武田家とも深く結ばれていきます。また、永正十三年(1516)九月二十八日、武田信虎はかねてより甲斐に侵攻していた今川氏親勢と万力で合戦。敗れた信虎は恵林寺に退却し籠ったりもしています。後に武田信玄が甲斐を治めるになると、恵林寺を自身の菩提寺として厚く保護するようになり、美濃より高僧である快川紹喜を招くなどし、さらに隆盛を誇るようになります。信玄が元亀四年(1573)に亡くなり、天正四年(1576)四月十六日には信玄の葬礼が勝頼のもと恵林寺で営まれ、春日虎綱をはじめとして剃髪する者が数百名に及んだと伝わっています。武田氏滅亡時には織田軍によって寺は焼かれてしまいますが、後に徳川家康により再建されます。四脚門(赤門)は家康により再建された当時のままのもので、慶長十年(1606)の棟札があり国重要文化財に指定されています。

さて、四月十二日は武田信玄の命日。ここ恵林寺では毎年法要が行なわれています。参道などには露店が立ち並び、様々な出し物もあることもあり、多くの人でにぎわいます。この日は普段は閉められている「明王殿」の扉が開かれ、武田信玄を模してつくられたといわれる武田不動尊(書籍・大河などにも登場して有名です)、武田信玄の墓も無料で見ることができます。境内には、武田二十四将の大きなのぼりがたてられており、これもまた楽しませてくれます。その他、稚児行列なども行なわれて、地域の方からは春のお祭りとしてかなり親しまれているのだとか。この日の駐車場ですが、放光寺の方向から入り、恵林寺東の駐車場に。しかし混んでいる可能性がとても高いので、放光寺に車を停め放光寺の愛染明王(重文)などを拝観して、数分散策しつつ、恵林寺へ・・・というのもお勧めです!

武田信玄菩提寺で墓所がありますので、武田氏館跡の武田神社などとともに山梨県下の観光地として大変有名な場所のひとつです。駐車場はお寺の西・東・南にありますが、お勧めは南側にある黒門前の駐車場。それほど駐車できないのですがこちらから黒門をくぐり参道を歩き、タップリとじっくりと恵林寺を堪能することが、個人的には大好きなのです。 

  

左:黒門、右:四脚門(赤門)

  

左写真:快川国師墓、右写真:武田信虎墓

<快川国師墓>快川紹喜。彼は美濃出身で信玄から請われ恵林寺に入ります。天正四年には武田信玄の葬儀を行いました。武田家滅亡後、織田軍から六角氏(若狭武田氏も・・・という説があります)の隠匿などの理由から、天正十年(1582)四月三日火をかけられますが、炎の中で快川国師の「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という言葉はあまりにも有名です。墓所は三門近くにあります。

武田信虎墓>信玄により甲斐を追放された武田信虎は駿河・京などに滞在。天正二年(1574)三月五日、結局甲斐に再び入国することはかなわず、信濃高遠で死去します。天正四年勝頼により信玄の葬儀が行われた際、あわせて信虎の墓所がつくられました。しかし、天正十年織田軍により焼失。その後、昭和四十五年(1970)信玄の450回忌にあわせ、再建されました。

  

  

左:秋山虎繁(信友)夫妻墓、中央:秋山親久墓、右:秋山光朝供養塔

武田家臣団墓所は武田信玄墓所裏手(有料)にありますが、一般墓地にも子孫の方々が建てたお墓があります。

<秋山虎繁(信友)夫妻墓>美濃岩村城で美濃方面最前線で働き散っていった秋山夫妻(最近の研究によると虎繁が織田信長の叔母を正室にしたという事実は誤りなのだとか)。虎繁は信玄の下で頭角をあらわし、三方原で有名な信玄西上作戦では岩村城を攻略しますが、勝頼の代になり織田家の圧力に屈し、天正三年(1575)長良川河原に磔にされ処刑されます。虎繁の法名は浄国または寶積院殿一叟晴近大居士。

<秋山親久墓>金丸虎義の子で秋山氏の名跡を継いだ秋山親久のお墓です。秋山虎繁が討死したあとは、金丸虎義の三男昌詮が秋山氏に入ります。しかし、彼は天正五年(1579)病死。今度は親久が秋山氏に入ります。勝頼とともに田野で死去します。法名は堅英了雄(恵徳院牌子)。

<秋山光朝供養塔>甲斐源氏で源頼朝家臣として大いに活躍した加賀美遠光の長男。彼が秋山の地に住居を構え「秋山」を称したことが秋山氏の始まりなのだとか。妻が平家の人間であったこともあり、甲斐源氏の勢力拡大を恐れた頼朝の格好の的となり謀反の疑いで処刑されます。

<久保田氏墓>墓碑によると、長篠で討死した但馬守重長、天正十年(1582)高遠城で討死した重長の後継美作守忠重がいます。ちなみに忠重の妻は栗原詮冬の娘と記されています。

久保田氏墓

明王殿、武田不動尊があります。

周辺の甲斐武田氏関係地:放光寺松尾神社向嶽寺など

参考文献:甲斐国社記寺記・戦国遺文武田氏編・山梨県史資料編・新編武田信玄のすべて・武田信虎のすべて・武田勝頼のすべて・恵林寺HP他

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<2006/8/11 2010/2/13リニューアル>